政治>
japanese.china.org.cn |12. 07. 2021

【中国共産党創立100周年】PART3 国力増大させた改革開放

タグ: 中国共産党

30年近くの苦難に満ちた模索とたゆまぬ努力を経て、中国共産党は人民を率いて社会主義を建設し発展させ、かつて立ち遅れていた中国で工業化を実現するための確固たる基盤を築いた。

1978年、中国は再び発展のための大きな選択に直面した。いかに立ち上がる段階から豊かになる段階までの偉大な飛躍を実現するかは、時代の課題となった。「思想解放、実事求是(事実に基づき真理を求める)」という思想の導きの下、中国共産党は全国人民を率いて実情から出発し、大胆に改革を行い、勇んで革新し、改革開放の戦略を断固として実行し、中国の特色ある社会主義の道を徐々に見つけるようになった。

改革開放戦略の実践の中で、中国は社会主義現代化建設の新たな時期を迎え、計画経済から社会主義市場経済への転換、農業大国から工業大国への転換、衣食問題の解決から小康社会(ややゆとりのある社会)の全面的建設への転換を実現した。世界から注目された「奇跡の成長」によって、中国は「時代に遅れる」から「時代に追い付く」、さらに「時代を導く」までの飛躍的な成長を遂げた。


改革開放にかじを切る

2018年1218日に開かれた改革開放40周年祝賀大会で、習近平総書記は次のように述べた。「1978年1218日は、中華民族の歴史、中国共産党の歴史、中華人民共和国の歴史に必ず記されている重要な日だ。わが党はこの日に第11期三中全会を開催し、新中国成立以降の党の歴史において深遠な意義がある偉大な転換を実現し、改革開放と社会主義現代化の偉大な征途を切り開いた」

11期三中全会は中国がどこへ進むべきかという正念場の時期に開催された。「今改革を行わないと、私たちの現代化事業と社会主義事業が葬られる」。当時の鄧小平の言葉は、今思い出しても力強く感じる。この会議では、党と国家の活動の中心を経済建設に移し、改革開放を実行するという歴史的な政策決定が成された。同決定は党の大きな目覚めともされている。

11期三中全会が開かれる2カ月前に、改革開放と現代化建設の総設計師とされる鄧小平は国家指導者として、初めて日本を公式訪問した。訪問は次の二つの目的があった。一つは中日平和友好条約批准書の交換式に出席すること。もう一つは日本の経済を視察し、中国で改革開放を行うために参考になる経験を求めること。

鄧小平は新日本製鉄、日産自動車、松下電器(現パナソニック)を見学し、新幹線で東京から京都に向かった。疾走する列車内で鄧小平は、「後ろからムチで追い立てられているようだ。われわれは駆け出す必要に迫られている」と感慨深げに語った。この訪問を通して、鄧小平は改革開放と現代化建設を推し進める決意を固めた。2カ月後の第11期三中全会では、党中央は最終的な政策決定を行い、改革開放が本格的に幕を開けることになった。

改革開放の先駆けというと、人々がまず思い浮かべるのは小崗村と深圳だろう。

78年、安徽省鳳陽県小崗村の農民18人が生産責任制の誓約書に指印を押した。旧体制に挑戦したこの大胆な試みにより、農村改革は幕を開けた。農家生産請負責任制実行後の最初の年、小崗村は豊作を迎え、20年以上国からの救援食糧に頼っていた歴史に終止符を打つことになった。

改革の成功は、小崗村の農民が勇気をもって思想を解放したことによるもので、中国共産党と人々の心がつながっていたことによるものでもあった。当時、生産責任制が農村の経済政策に合致するかどうかについて、社会では激しい論争が繰り広げられていたが、党は人々の意思を尊重することを貫き、選択権と決定権を農民に与え、事実をして語らしめた。生産責任制がもたらしたプラス効果を見て、党中央は断固として経営請負制と生産請負制を主とする農家生産請負責任制を全国の農村に広めた。生産責任制は「大鍋飯」(働きのいかんにかかわらず、同じ待遇を受ける)を打ち破り、農民の生産意欲を引き出し、中国の農村はここから専業化社会化生産への転換に踏み切るようになった。

改革と共に、中国は世界に開放の扉を開いた。中国初の経済特区として、深圳は世界の工業化都市化現代化の奇跡をつくり出した。しかし、急速な経済成長を遂げた深圳は、外部から懸念と疑問を持たれてもいた。

長期にわたり人々を困らせ束縛した重大な認識問題について、鄧小平は1992年春、有名な「南方談話」を発表し、次のように述べた。「改革開放に踏み切らず、大胆に行う勇気がないのは、つまるところ資本主義をやっているのではないかと危惧しているからだ。深圳の建設の成果は、あれこれ心配した者に明確な回答を与えてくれた。特区の姓(属性)は社会主義であり、資本主義ではない」

その後、深圳は改革開放の道をさらにしっかりと進むようになった。「渡り石を探りながら川を渡る(6)」から「広い道を切り開く」まで、深圳は大きな包容力と勇往まい進の姿勢を持って、中国の特色ある社会主義の輝かしい1ページを記した。

農村から都市まで、沿岸部から内陸部まで、改革開放は中国で全面的に行われるようになった。改革深化と開放拡大を図る措置が次々と打ち出され、人々の創造的活力を引き出し、人々の心を合わせる強い力をほとばしらせ、世界に注目された「中国の奇跡」を起こした。

1  2  3  >