この墓は、長沙馬王堆漢墓の発見のち、湖南地区における第二番目の盗掘をうけていない王候墓の発見である。長方形竪穴土坑墓で、斜墓道に、南北に4墓室があり、棺や椁もほぼそのままの形で残されていた。副葬品は、棺、および椁と4墓室におかれており、漆器、木器、陶器、銅鏡、玉印章、玉璧など500件にのぼり、竹簡も千余り残されていた。それぞれの品はかなり精巧なもので、細かな模様が施されていた。竹簡に残された字は清明で美しく、完全な形を保っていた。
その内容は、図書、刑徳、黄籍、美食方などである。黄籍には、げん陵侯国に所属する各郷の戸数と人口の数次にわたる調査の結果、およびその変化の原因が記され、前漢前期の侯国の戸籍制度について、重要な研究資料となるものだ。
また美食方は、各種食物の選び方および調理の仕方を記した物で古代の食文化の空白を埋める資料となる。
墓の主人は呉陽、長沙王・呉臣の子であり、第一代げん陵候として高后元年(前187年)に封じられ、文帝后元二年(前162年)に亡くなった。在位は約25年になる。この墓の発掘は当時の歴史に極めて重要な材料を提供するものである。
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