黒竜江省での考古学調査で、唐文化が渤海国に
影響 を与えていたことが証明された
(2000年1月5日)


    中国史における中世紀(世界史的には封建時代を指す)、中国の東北部に興った渤海国(698〜926年)が唐(618〜907年)の漢民族文化と密接な関係を持ち、文化や官僚制度の面で唐の文化を受けていたことが最新の考古学調査で明らかになった。

    これは、国家文物局が1997年に始めた「渤海上京竜泉府宮城遺跡考古学プロジェクト」のなかでもたらされた成果。同計画は10年の歳月を費やして進められる予定で、最終的には渤海国の都上京竜泉宮城の全貌を明らかにし、渤海国の文化の起源を研究するための直接史料を提供することを目的としている。

    99年7月から10月にかけ、黒竜江省牡丹江地区寧安市渤海鎮にある上京宮城遺跡の中心で、大規模な発掘調査が行われた。その結果、かつてそこに建っていた宮殿は、建物の配置にせよ建築様式にせよ、唐の都長安にあった大明宮の含元殿に酷似していることが分かった。その規模からして、そこは渤海国の君主と配下の家臣たちが日々政事を執り行っていた場所と考えられている。

    含元殿に似ているとはいえ、建築物の細部には独自の工夫も見られる。その造りは精巧で、中国建築史の空白を埋める発見といえる。

    また発掘調査では多くの貴重な文化財も見つかった。その中に、漢字が書き込まれた大量の瓦の破片が含まれているが、これは渤海国の朝廷ではすでに文字が使われていたことを物語っている。また金メッキされた銅製の仏像も出土。ちなみに当時は、仏教が唐朝からの崇拝と加護を受け、大変栄えていた時期だった。

    さらに今回の調査では、官位の序列を示すためのレンガ製の札が約200枚見つかった。札には楷書体で「四品」、「四位」といった字を認めることができ、渤海国が唐の典章制度をまねていたことが分かった。このような札の実物が出土したのは初めて。

    渤海国はまつかつ人を中心として建国されたが、後に唐の册封体制の中に組み込まれ、唐の一地方民族政権となったことは、学術界の中では国際的にも共通認識としてほぼ定着している。