揚州の何園。正式の名は寄嘯山荘。徐凝門街の花園巷にある。清代光緒年間に、湖北・漢黄旗の何道台が13年かけて建てた住宅だったので、何園と呼ばれるようになった。何園は揚州で最も完全な形で残る古い私有の庭園。江南地方と西洋の特色を兼ね備え、「清代後期第一の園」と言われている。
規模はそれほど大きくはないが、構造が合理的だからか、非常に広大にみえ、視野がぐんと広がる。庭内にある亭・台・楼・閣や、築山の配置は非常に独創的だ。築山は一般とは違い、いずれも壁沿いに置かれていて、深い味わいがある。東園の「船庁」。ほかの庭園とは異なり、四面が開かれていて水が流れ、敷き詰めた瓦石が水の文様になるなど、なかなか寓意的だ。ほかにも絶妙な風景がある。「琴棋書画」と「鏡花水月」。前者は、琴台と碁盤、書法、さらに窓からの秀麗な風景がともに織り成す絵画だ。後者は、湖面の築山に穿たれた小穴から、水面に月の影が映り、しかも観る角度によって、月の欠け具合や丸みの異なる美しい光景を味わうことができる。感嘆すること止まない。
何園最大の特色は、「復廊」の構想の巧みさだろう。東と西二つの庭園を住宅と一つに結ぶように四方八方を貫き、局部的な美とともに、全体的な美も備えている。「串楼」は上下に曲がりくねっていて、歩を進めるたびに、景色は変わり、いつまでも変幻するので、実に新鮮だ。この精妙な設計は、揚州庭園の代表作であって、また清代末期の庭園の優れた代表的作品に恥じることはない。
また何園には、西洋の要素が数多く融け込んでいる。欄干は精緻な鉄製、窓に嵌められた大きなガラス。いずれもフランスから輸入したもので、当時は「一寸のガラス、一両の黄金」と言われていた。部屋にも西洋の物品が数多く置かれているので、何園は早期の「西洋風の別荘」と言えるだろう。
何園には「園中の園」と言われる「片石山房」がある。その歴史は非常に古い。何園の主は購入した後、その周囲を拡張し、それが後の何園となった。片石山房の築山石は清代の大画家、石涛和尚が造ったと伝えられていて、現在では、石涛が石を積み重ねて描いた「この世の孤本」と言ってもいい。
「チャイナネット」2006年4月