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満州族の特色残す清の関外三陵

 

昭陵の正紅門の前にある石牌坊
 清代の皇帝陵は、河北省の遵化市にある東陵と易県にある西陵以外に、遼寧省にさらに三基ある。それは、瀋陽市にある清の太祖ヌルハチの福陵と、清の太宗ホンタイジの昭陵、撫順市新賓県にあるヌルハチの祖先たちを祭った永陵である。この三基の皇帝陵は、清の「関外(山海関の外)三陵」と略称され、2004年に「明清の皇室陵墓」の拡大プロジェクトとして、世界文化遺産リストに登録された。

謎多い福陵

福陵の隆恩殿(左)と方城の城内

 「後金」という国を建てた清朝の初代皇帝の太祖ヌルハチは、天命11年(1626年)8月11日、病のため、瀋陽の郊外で崩御した。当時、皇帝陵の建設はまだ始まっていなかったので、ヌルハチの遺体は、しばらく瀋陽城内の西北角に埋葬された。先の皇帝の陵墓の地を選ぶ重任は、その後継者である清の太宗ホンタイジが担うことになった。

福陵の神功聖徳碑亭

 先の皇帝を埋葬するにふさわしい、風水の素晴らしい土地を選べるかどうか。それは、自分の帝位の安定にかかわるだけではなく、国家の盛衰にもかかわることだと、ホンタイジは考えた。

 ヌルハチやホンタイジは女真族の出身である。女真族は今の満州族で、長白山を民族の発祥地と見なし、ここから女真族の脈が発していると考えていた。ホンタイジは瀋陽の北東郊外にある天柱山に長白山の脈の末端が来ているので、ここを父の皇帝の陵墓の地に選定した。天聡3年(1629年)に陵墓は完成し、ヌルハチと孝慈皇后の棺はそこに移された。崇徳元年(1636年)、ホンタイジはこれを福陵と命名した。

福陵の神道上の石虎

 他の皇室の陵墓と違い、福陵は高い丘の上に造営されている。最初につくられたときはとても粗末であった。第三代世祖のとき、摂政の睿親王ドルゴンが山海関を越えて「入関」し、その後、清王朝は先進的な漢文化を吸収した。明の皇帝陵の雄大な規模と雄壮な迫力を鑑として、永陵、福陵、昭陵に大規模な増築、拡張、改築を行い、今日の姿を造り上げた。

 福陵の正門である大紅門の両側には、二つの石牌坊(大きな鳥居形の建物)がそびえ立っているのが目を引く。中国古代の伝統に基づいて、牌坊は、門の前に建っているシンボリックな建築物として、建築群を引き立たせる作用を果たす。それは通常、正門の前に建てられる。

.福陵の大紅門

 この2つの石牌坊は、実は下馬の標識である。石牌坊の上には満州、蒙古、漢の三種の文字で「往来する者はここで下馬せよ。反する者は法によって処罰する」との警告文が刻まれている。この牌坊を下馬坊にする建築様式は、中国の皇帝陵の中でここしかない。

 大紅門の神道(墓前に通ずる道)に入ると、両側に動物の石像が並んでいる。それは一対の華表(竜・鳳などの図案が彫刻された装飾用の巨大な石柱)と駱駝、馬、虎、獅子の四対の石獣の彫像からなっている。おもしろいことに福陵の石像には、普通の皇帝陵のように文官や武官の石像はなく、魔除けと墓守りの瑞獣(吉祥の獣)もない。ただ実在する四種の動物があるだけだ。

108段の階段を登り、やっと福陵の方城に着く

 とくに虎は、明清時代には大臣の墓地で使われ、皇帝陵にあってはならないものだ。しかし福陵にどうして虎の石像があるのか、これは謎と言わざるを得ない。

 石像群を通りぬけ、108段の階段を登ると、陵墓の主要な建築物が目の前に現れる。福陵でもっとも特色があるのは、陵墓区が都城のような造営のルールでつくられていることだ。福陵の外には紅い壁があり、内には方城がある。陵墓の壁の四隅には角楼が建っている。まるで都城の外郭と内城、角楼のスタイルにそっくりだ。

 この建築構造は美しいうえに、明らかに防御の役割を帯びている。それは当時の揺れ動く政治・軍事情勢と直接、関係があるのだろう。

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