| 大型の「四合屋」の客間 | | 「四合屋」には上下二つの客間がある | | 天井絵画の部分」 | | 百年以上の歴史をもつ寝台 | | 台所の外壁には自家製の臘肉(塩漬けの干し肉)が掛けられている | 関麓村は、徽商のふるさとである。明・清代に、徽商は江南地方における経済・財政の重要なポストにあった。彼らは長年、外の地方で商売していた。妻子を家に残して田畑を買い与え、定期的に生活費を送っていたが、せいぜい年に一度か、三、四年に一度しか帰らなかった。老後ようやく自宅に落ちつき、悠々自適の余生を送って骨を埋めたのである。大もうけした徽商たちは、相次いでふるさとに邸宅を建て、祠堂を造り、庭園や書院(昔の学校)、寺を興した。「退職後はふるさとに帰り、半ば隠居した田園生活を送る。自然に親しみながら、親族と和やかに過ごす」――。それは、徽商たちの老後に対する憧れだった。そしてそれも村の構造や家屋の建設に大きな影響を与えたのである。 村の入り口は「水口」と呼ばれ、徽派建築のうち最も重視されるところである。関麓村の入り口には、もともと四棟の祠堂があり、何本かのクスノキの大木や黒石造りの欄干のある「月塘」(弓張月の形の池)、関帝廟、社廟(鎮守神を祭った寺)などがあった。残念ながら、祠堂や廟はここ数十年のうちにすべて取り壊されてしまったという。 徽商は「儒商」(儒学者風の商人)と自負し、読書をよくして道理をわきまえる人々だった。彼らの田園生活は、じつに優雅で上品だった。関麓村は小さな村落なのだが、それでも十数棟の教学庁(教室)がある。「関麓八家」だけでも六軒に塾が開かれ、今でもそれぞれ「安雅書屋」「臨渓書屋」「問渠書屋」「双桂書屋」「学堂庁」「小書斎」と呼ばれている。 民家の門の扁額にある「吾愛吾廬」という題字は、清代の有名な書道家・趙之謙によるものだ。また、かつての県の書道家で、画家の汪曙が暮らした家も関麓村にある。村の長老によれば、「われわれ汪家の祖先は商売もしたが、勉強もした。お金をもうけ、人を育てた」ということである。 関麓村に入ると、「馬頭牆」(階段の形をした切妻壁)や弓型の壁、黒い瓦、白い壁が互いに組み合わさり、美しい輪郭を生みだしていた。民家の正門上部には黒いレンガが飾られており、橋のかかった小川が正門をとりまくように流れていた。各家に入ると門楼(屋根つきの門)、中庭、客間、寝室、台所など、それぞれの配置に工夫が凝らされ、家具は昔ながらの伝統的なスタイルで置かれ、幅広の掛け軸やその両側に掛けられた対聯(めでたい対句を書いたもの)などがいずれもそろっていた。レンガや石、木の彫刻が吹き抜けになった中庭周囲の建物に施されており、じつに華やかで精巧な造りである。しかし、そのほかの造りは簡素で質朴、華麗でありながらスッキリしており、重点をより際立たせていた。 |