10月23日から28日まで「中国現代漫画大展」が名古屋で盛大に開催された。今回の漫画展の企画者、主催者は日本で社会派漫画家として知られる森哲郎氏だった。森氏とはどのような人物で、なぜ中日マンガ交流開拓の「第一人者」と呼ばれているのか。
▽「抗日漫画」を一冊にまとめ「日本軍の中国侵略」の事実を訴える
4月9日、温家宝総理の日本訪問前夜、森哲郎氏は北京に到着した。1980年から今にいたる28年間に、50回も北京を訪れたという。その目的は、日中文化交流の橋渡しだった。
日本で社会派漫画家と呼ばれる人は多くない。森氏の著書の一冊に「抗日漫画戦史・中国漫画家たちの15年戦争」がある。これは日中両国に大きな波紋を広げた。なぜ、日本の漫画家が日本軍の中国侵略を描いたのか、恐らく、圧力や妨害もあっただろう。いくつかの出版社をまわったが、どこにも出版を断られ、結局自費で出版した。この本には多くの購読申込や、激励の手紙も舞い込んだという。
森氏はその後、論語を漫画にして出版した。これは北京の出版社からも刊行された。氏は日本で中国の漫画展を開催し、一方で北京や上海などでも森哲郎漫画展を開催した。すべて、自費を投じての作品展だ。すぐれた画家は清貧をよしとするもので、お金よりも批判精神が大切だと森氏は屈託なく話す。
▽「孫氏の兵法」を活用
北京で森哲郎氏は、書店をまわり、そして建設工事中のオリンピック・メインスタジアム「鳥の巣」を見学した。これは次の作品の中に取り入れるためだという。多くの日本の若者たちに北京オリンピックを知ってもらいたいのだという。書店は、訪中の度に必ず行く。中国の古典が氏のお気に入りだ。森氏の人生における選択は、中国文化の影響を受けているそうだ。
森氏は23歳のとき漫画家を志し、毎日15時間以上、机に向かって売れない漫画を書いた。ペンをとる指にまめが二段にもできた。いま活躍中の漫画家に追いつき追いこすには、その相手の倍、書くことだと考えた。100頁でも一気に書き、そして力をつけること。それが世に出るための自らの戦略だったと語る森哲郎の話に、記者は驚いた。氏の言う戦略は、孫子の兵法から得たものだったからだ。
日本では漫画家は金の稼げる仕事である。多くの雑誌に漫画を書きに書いた。A4一枚が1頁で、その原稿料が2万円であった。そして、1カ月に300頁を書けば、毎月の収入は600万。しかし、そんな収入があっても、空しさをかこっていたのだと森氏は語る。それは、書く漫画すべてがただの娯楽漫画であり、読者に笑って読み捨てられるだけの漫画だったからだ。そして氏は、社会を風刺したり啓発したりする社会派漫画家への道に転じた。
森氏は、記者の前に「反骨」という二文字を書いた。それは氏の批判精神だ。「日本の漫画家は、豊かになりすぎて、反骨精神を失くしている」と言う。そして、日本の漫画のほとんどが、いわゆる物語漫画だと紹介した。
かつて、魯迅が示した「漫画家は高邁(こうまい)な精神を持ち、民をより良い方向に導くべし」という教えを堅持し、人びとに感動を与えられる漫画家になりたい、という森哲郎氏は、新聞などに社会派漫画家と冠される日本では数少ない人物の一人であろう。森氏が日本で「中国漫画展」を開催するのも、日本の漫画界に少しでも刺激を与えたい、という目的があるのだという。風刺の効いた社会漫画にもっと関心を持ってもらいたいと語る。