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祭りの食品 |
発信時間: 2008-04-03 | チャイナネット |
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清明節のころは、各地にそれぞれ特色ある祭りの食品がある。 広東省の客家の山村では、清明節の前、村の娘さんたちが手に籠を下げて、野原から艾(ヨモギ)の若葉を摘んでくる。これを洗ってから、水に浸したモチゴメの中に入れる。さらにこれを石臼で粉にする。それに黒砂糖の汁を混ぜ、蒸して、青緑の色をした「艾 」(ヨモギ餅)を作る。 蒸しあがった蒸籠の蓋を開けると、厨房にはたちまちヨモギの葉の香りが満ち、ヨモギ餅の甘いかぐわしさや柔らかいモチゴメの美味さが、いまなお思い出される。ヨモギ餅には、湿気から起こる病を取り除き、目を良くし、熱をさまし、解毒し、女性の月経を整えるなどの効用があり、一種の民間に伝わる健康食品である。 江南の水郷の農家では、臼で撞いたヨモギの葉をモチゴメの粉の中に入れ、小豆の餡を包んで、手で丸い「青団」(ヨモギ団子)をつくる。これもまた味のあるものだ。 ヨモギを摘むことができない都市住民は、野菜の絞り汁を使って団子を青く染めて「青団」を作る。それはヨモギの香りはしないけれども、真っ青で玉のように丸く、本当にかわいらしい。これは墓参りのときに使われたり、自分の家で食べたりするほか、親しい友人への贈り物としても使われる。 麦の産地である北方では清明節の前、各地の農家の主婦たちが小麦粉で小鳥の形をしたお菓子を作る。これはまず、練った小麦粉の玉を鳥の形に捏ねてつくり、きれいな木製の櫛で小鳥の背中を軽く二回押さえて一対の翼を作る。さらに小鳥の頭に二粒の黒ゴマを押し付け、鋏で嘴を作る。こうして作られた、口を大きく開けて鳴いている小鳥は、蒸籠の中に入れられる。 蒸し終わると小鳥に色をつけ、糸で梁からつるしたり、柳の枝につるして、それを門の横木の上に挿したり、樹木に結びつけたりする。赤や緑の小鳥たちの群れで、農家の軒先には、春の気分が溢れる。 小麦粉で作った小鳥を「子推燕」と呼ぶ。それは、今から2000年前の晋国の家臣だった介子推を記念するものと伝えられている。 介子推は宮廷で政変があった後、晋の太子であった重耳に従って他国を流亡し、多くの艱難辛苦を嘗め尽くした。19年後、重耳は国に戻り、国の政治を取り仕切り、さらに晋の文公となった。しかし彼は、多くの家臣に知行や爵位を与えて賞したが、介子推のことは忘れてしまった。介子推は、母親とともに綿山に隠居した。
後に晋の文公は、介子推のことを思い出し、人を派遣して、彼に山を下って封を受けるよう求めたが、実現しなかった。そこで晋の文公は、また人を派して、火を放って山を焼かせ、彼に下山を迫ったが、介子推は母親と焼死しても、山を下りようとはしなかったのである。 晋の文公は、介子推を記念するために、一日中火を焚くことを禁止し、人々は冷飯を食べなければならない日を設けた。これが、清明節の前の寒食節である。 実は、寒食節は、春と秋に、木をすり合わせて種火をとった昔の習慣にその起源を発する。当時、支配者は年に二回、種火を取って人民に配ったが、新しい火種を起こす一カ月前からは、火を使うことを禁じた。だから最初は、火を使わず冷たいものを食べる寒食の期間は一カ月間もあり、人々の健康に大きな影響を与えた。 このため、三国時代の魏の曹操(155~220年)は、陋習を改革するよう命令し、寒食の期間を三日間にし、後に一日に減らした。唐の時代になると、朝廷は寒食節を行わないよう命じた。しかし民間では、禁止されても寒食節はなくならず、清明節の中に融けこんだ。北方の「子推燕」や南方の「青団」は、寒食禁止の名残りである。 このように、古代の上巳節、寒食節と墓参りなどの古い習慣とが融合して、最後には唐代に、清明節が次第に形成されたのである。 「人民中国」より 2008年4月3日 |
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