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復活する琉璃工芸
発信時間: 2008-11-27 | チャイナネット

今年8月23日午前の北京オリンピック公園は、日ごろより明らかに人の流れが多かった。この日の昼、この公園内にある国家スタジアム(鳥の巣)でサッカーの決勝戦が行われたためだ。

その「鳥の巣」の北に「祥雲小屋」と呼ばれる展示エリアがあり、中国大陸各省・自治区および香港・澳門・台湾地区の文化を集中的に紹介している。敷地面積100m2ほどの「小屋」に足を踏み入れたとたん、外の喧騒とは対照的な古い原生のままの文化に染められ、興奮気味の気持ちも急に静かに落ち着いてくる。特色ある「小屋」を1つ1つ見て回ると、台湾の瑠璃(るり)工芸が深く印象に残る。

「瑠璃」とは中国古代の「玻璃(はり)」(ガラス)の呼び名だが、現在は「瑠璃」というと一般的には、各種の酸化物を加え焼いてつくった色つきのガラス製品を指す。つまり、瑠璃はガラスの一種ではあるが、その範疇はガラスそのものよりはるかに小さいと言える。瑠璃は色つきの人工水晶を焼いてつくるが、その製造工程は複雑で、手作業を主とした数十の工程を必要とする。その特徴である「火から取り出し、水に入れる」技術のため、仏教では瑠璃を千年修行の境地の化身であるとして、あらゆる経典で「瑠璃のような気高さ」を僧侶の修行の最高境地と見なしている。

 

 

米国コーニングガラス博物館が収蔵した楊恵姍氏の作品「澄明な悟り」

 

瑠璃は中国の古い工芸として2000年以上の歴史を有すると言われている。しかし、そのほとんどは皇室専用に供され、その使用者には極めて厳格な階位が求められた。しかも、14世紀中ごろになると、こうした古い工芸の伝承は断絶の危機に瀕し、その頃つくられた瑠璃はすでにその意味を理解されなくなり、しばしば「薬玉」と呼ばれるようになる。今に至るまで、多くの中国人にとって瑠璃は北京の故宮(紫禁城)の「瑠璃」瓦によって見るだけで、民間では依然として余り見られないものだ。

 

瑠璃の作品「千水一躍九重天」

 

しかし、もしかしたら今、ひっそりと変化が生じ始めているのかもしれない。台湾の「祥雲小屋」に入ると、展示ケースに並ぶ瑠璃の作品がすぐに人目を引き付ける。照明のもとで1つ1つ異なる瑠璃の展示品が透明な美しさを放ち、生き生きと眼前に迫ってくる。そのうち「玉の如き百合」と言われる展示品は人々が絶賛する作品で、多くの人がその前で足を止め、写真を撮っている。スタッフの楊紅さんによると、8月9日にオープンしてから、台湾の「祥雲小屋」には毎日、平均して7、8000人の人が訪れ、最も多いときには1日2万人を超す人が訪れたという。

「昔は瑠璃を理解する人が少なかったけど、今、ここに参観に来る人の半数ほどは瑠璃のことを知っていて、しかもその作品にとても興味を持っているようだ」と楊紅さんは言う。

なぜ瑠璃が庶民に知られていなかったのかについて、楊紅さんは、瑠璃の材質が少し脆いことと関係がある、と説明する。瑠璃はガラスから作られるため、壊れやすいもの、消えて無くなりやすいものというイメージが人々にあったためだという。

実際には長い間、瑠璃は、金・銀、玉・翡翠、陶磁器、青銅とともに中国の五大名器の1つして称えられてきた。しかし、その脆さに加え、固定観念(多くの人にとって「瑠璃」はきれいなガラスにすぎなかった)によって、一般庶民の趣味やコレクションの広がりにおいて、瑠璃はほかの四大名器に遠く及ばなかった。

楊紅さんはさらに、「中国人はみな玉が好きで、玉をめでたいもの、人と天をつなぐものと見ている。これに対して、多くの西洋人はガラスを人と天をつなぐものと見なしているため、多くの教会でステンドグラスが使われている」と話す。

また、瑠璃の芸術的価値は徐々により多くの人々に受け入れられてきており、その市場潜在力は広がっている。今、瑠璃製品の生産、開発業者は次第に増えているが、ほとんどは小規模で芸術的力量が弱く、玉石混交の状態である。これらさまざまな業者の中で比較的早くに起業し、豊かな技術力を持つのが台湾の「瑠璃工房」で、今回の「祥雲小屋」も同工房が主催している。

 

瑠璃作品「追風」

 

「瑠璃工房」の誕生と発展は、山あり谷ありのドラマチックなものだ。1987年、台湾最大の映画賞「金馬賞」を数回受賞したことのある女優、楊恵姍さんは、同じく金馬賞の受賞経験者である張毅監督とともに、偶然の機会に触発されて、当時はフランス人だけが行っていたパート・ド・ヴェールという技法を学ぶ決心をする。彼らはこの技法を使って中国人自身の思想や気持ちを表現したいと思ったのだ。そして彼らは自分たちの工房、「瑠璃工房」を設立する。

しかし、彼らの出発点は、ほぼ空白の状態だった。瑠璃工房設立当時のメンバーは、誰一人として瑠璃のことをわかっていなかったからだ。ほとんどの人がここへ来る前は映画関係の仕事をしていた人たちだった。最初の3年半の間、彼らの実験のほとんどは失敗に終わった。その間、瑠璃工芸の歴史に対する知識も極めて少なく、ずっと「舶来品」と思っていたのだ。そのため、彼らは外国の書籍を通して「パート・ド・ヴェール」の技法を学んだというわけだ。あるとき、海外の情報によって、実は早くも漢代(B.C.206~A.D.220)にすでに「脱蝋鋳造法」という技法が基本的に確立していたことを理解する。そこで瑠璃工房は中国の歴史・文化の宝庫の中から養分を吸い取る方向へと転換するとともに、次第に進展を遂げていった。

今では瑠璃工房の作品のテーマも広がり、古代の装身具や象眼細工に限定されたものではなくなり、次第に庶民生活に浸透していき、瑠璃の生活用品をシリーズで製作するようになった。ここ数年は市場の反応もよく、今や国外と大陸部の一部地区に分室工房を開設するまでになった。

07年3月、瑠璃工房の創設者である楊恵姍さんがニューヨークの高級アートギャラリー“レオ・カプラン・モダン”で作品を展示していた間、世界で最も権威あるガラス専門の博物館「米国コーニングガラス博物館」が彼女の作品「澄明な悟り」を収蔵した。これは、世界的に権威ある機関が瑠璃工房の水準を認可したことを物語るものだ。

「瑠璃工芸を復興させることは、ガラスという無色透明な材質を通じて私たちの生命に対する感動を表現し、民族の歴史・文化を改めて認識することだと思う」と楊紅さんは言った。

 

「北京週報日本語版」 2008年11月27日

 

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