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「薫風の翼」に友情をのせて |
発信時間: 2008-03-06 | チャイナネット |
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1994年、北京で開かれた第三回中国国際合唱祭で、布谷鳥芸術団と記念写真に納まる亀田さん(前列右から4人目)(写真提供・布谷鳥芸術団)
中国と日本の友好を願って日本人が日本語で作詞し、それを中国人が中国語に翻訳し、曲をつける――こうしてできた友好の歌曲のコンサートが、昨年6月30日、北京で開かれた。ここで、30年にわたって中日友好の歌を創作してきた亀田昇さんが、中日国交正常化35周年を記念するために作った『薫風の翼に』(中国の曲名は『乗着那春風的翅膀』)が披露された。 歌ったのは、1990年5月に成立した北京布谷鳥(カッコウ)芸術団。この芸術団は、北京市少年宮老団友合唱団、北京天元合唱団、北京友誼合唱団から発展してきた芸術団で、メンバーは社会各界の音楽愛好者からなっている。 公演では、亀田さんが作詞し、中国の作曲家が曲をつけた『姉妹花』(中国名は『姐妹花』)や『私たちは友達』(中国名は『我們是朋友』)など8曲が歌われた。『薫風の翼に』は、芸術団の団長である付大滬さんが曲をつけた。 初の中日合作の歌曲 布谷鳥芸術団の団長の付大滬さん(右)が亀田さんに書を贈った 亀田さんは今年、73歳になる。中国との縁は、1975年の春に始まる。当時、日本で新聞記者をしていた亀田さんは、富山県知事を団長とする「富山県第五回青年の船」に随行して、初めて中国を訪問した。 亀田さんの目にはすべてが新鮮で、珍しいものに映った。中国の人々と交流する中で、「心と心の触れ合い」を感じ、友好と平和に対する強い願いが、創作意欲を強烈に刺激した。亀田さんは、突き動かされるように『心に乾杯』という歌を書き上げた。これは彼が創った最初の中日友好の歌詞である。 帰国する前、彼はその歌詞を、北京市政府に渡し、中国の音楽家が曲をつけてくれるよう願い出た。しかし当時はちょうど「文化大革命」のさなかで、返事は、梨のつぶてだった。 しかし、さまざまな曲折を経て、廖承志氏や孫平化氏ら中日友好協会の指導者の助けによって、1980年2月、中国から『心に乾杯』の詞につける曲がエア・メールで届いた。「よかった、よかった。日中の間に初めての歌の共同制作がついに成功した!」。曲の譜面を見た亀田さんは跳びあがって喜んだ。 「当時、中国では23人がいっしょに曲を討論し、最終的に中央人民ラジオ放送局の音楽監督の李毅之さんが選ばれたそうです。日本でも中国でも、マスコミがみな、このニュースを報道したのですよ」と言いながら亀田さんは、カバンを開いて大事そうに、すでに黄色に変色した新聞を出して見せた。 |
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