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中日文化交流の架け橋―松谷省三氏
発信時間: 2009-03-20 | チャイナネット

劉幸宇(神戸学院大学)

中日文化交流に夢中になった数多くの有識者の中ですばらしい業績を上げた1人の日本人学者がいる。氏は30年来、徐悲鴻の生涯の研究に没頭し、論文10数篇を発表、専門書を3冊出版し、記録が残っていなかった徐悲鴻が日本に留学した時期の空白を埋め、日本屈指の徐悲鴻研究者となり、中日両国の文化交流の架け橋とたたえられている。その人物は、元神戸学院女子短期大学事務局長兼講師の松谷省三氏だ。

松谷氏と知り合ったのはある縁がきっかけだった。1990年夏、神戸学院大学で学んでいた際、神戸学院女子短期大学に協力して天津南開大学女子バレーボールチームを接待した。当時は、中日文化交流に熱心な事務局長の松谷氏に対し深い印象が残った。1994年春、私は神戸学院女子短期大学に就職し、松谷氏をよく知るようになった。

松谷氏は1934年、中国語教師の家庭に生まれた。 “省三”という名前は父親が孔子の『論語』から引用したものだ。家庭で薫陶を受けた松谷氏は6歳の頃、父親に従って『論語』をまとめて述べることができるようになった。幼い頃、父親が所蔵する『漢語大系』の中の『西遊記』を愛読。高校合格後は毎日、中国に関わる書籍・雑誌を2、3冊も読む。大学に入った頃、氏は図書館で「徐悲鴻水墨画選集」を目にした。選集中の躍動感あふれる作品が彼の心の琴線を揺り動かし、この巨匠の一生の業績に沸々と興味がわいてきた。

1979年夏、松谷氏は中国文化に対するあこがれを抱きながら、初めて中国を訪れた。まず古都の西安でこの文明古国の美しい山河や燦然と輝く文化を堪能、そのあと古都の洛陽に向かい、洛陽博物館の絵画店で三分の一の旅費を使って中国絵画の巨匠・徐悲鴻の名画「奔馬図」の模写を買った。これをきっかけにして、徐悲鴻の輝ける一生の業績を研究し始めた。しかし、長い間、日本で中国芸術を研究するには、日本で所蔵されている近代中国以前の文化財および台湾故宮博物館の収蔵品を対象にすることしかできず、中国現代画家に関わる資料はきわめて少なかった。重なる困難に直面した松谷氏は大陸と台湾から資料を直接集めるため、まず骨身を惜しまず中国語を勉強し始めた。1980年から、氏は『人民日報』、『美術研究』など中国語書籍・雑誌を10数種も購読し、関連資料を調べるため、わざわざ東京の国会図書館に出かけたこともある。前後して13回も訪中し、一次資料を大量に入手した。1994年6月、長い間あこがれていた北京徐悲鴻記念館を訪れ、徐悲鴻の不朽の作品を鑑賞し、徐悲鴻の次男、徐慶平副館長とひざを交えて話し合った。1995年11月、上海、南京で徐悲鴻旧居、徐悲鴻ゆかりの地を訪れ、徐悲鴻の故郷である宜興屹亭橋鎮に初めて外国人学者の足跡を残した。1996年8月、氏は北京にある徐悲鴻旧居を訪れ、謹んで徐悲鴻の墓碑に花束を捧げ、徐悲鴻の未亡人、廖静文氏にインタビューした。30年来、氏は徐悲鴻研究および自費出版に計1000万円余りを投じてきた。

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