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シルクロードとブックロード |
発信時間: 2009-11-24 | チャイナネット |
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新天地に持ち込む文化 倭王武の上表文 『宋書』「倭国伝」より(農文協 石川九楊著『漢字の文明 仮名の文化』) 海外で長期滞在したことのある人間には分かるが、引っ越す前の準備は並大抵ではない。しかしとくに海外への移住を決心した人間が新天地を想定して荷造りするとなれば、なにを捨てなにを持ち込むかの選択は、最終的には大差がないように思う。 司馬遷の『史記 』の巻118「淮南衝山列伝」によると、徐福という人物が「東方の三神山に長生不老の霊薬がある」と秦の始皇帝に述べ、始皇帝の命を受け、3000の童男童女を率いて東方に船出し、「平原広沢」を得て王となり戻らなかったとの記述がある。紀元前220年ごろのことである。 この徐福が新天地を目指して旅立つ時に選択したのが五穀百工である。穀物の種と技術者、実に明快そのものである。選りすぐりの先端技術と再生産可能な種、しかも連れて行ったのは童男童女である。望郷の念に駆られるような人間は連れて行かない。 徐福伝説は、日本国中といっていいぐらい各地に言い伝えが残っている。中国でも東渡した出航の地が数多く名乗りを上げているが、しかしいまだに歴史的決着がつかないのは、徐福ほどの人物が当然持ち込んだであろう、「文字」が発見されていないからである。 秦の始皇帝は、紀元前221年全国を統一すると数々の偉業をわずか12年の間に成しとげた。度量衡の統一、貨幣の統一、車幅の統一、万里の長城の建設、阿房宮の建設、始皇帝陵(兵馬俑)の建設と驚くべき事業を行った。だがもっとも評価されるべき偉業は、漢字の統一であろう。それまで地方ごとに異なる字体が使われていたが、これを改め、秦の字体を標準字体として採用した。東アジアはこれ以降、漢字によって結ばれ、文化を共用し、文明を伝えてきた。 その始皇帝を欺いた徐福が、新天地に五穀百工よりなにより漢字や書籍を持ち込まないはずはない。百工を連れて行くより、百巻の書籍の方がはるかに持ち運びやすい。百工はもちろん多くの技術者という意味であるが、たとえ1つの技術につき2人ずつ用意したとしても、病気もすれば怪我もする、飯も食うし夜は眠る。 鑑真和上の将来品について第2回と第6回のリストが『唐大和上東征伝』にある。いずれも経などの仏教関係書が中心であるが、第2回目には漢方薬の材料などが含まれている。鑑真は「医薬の始祖」または「日本の神農」と崇められ、江戸時代まで漢方薬の包み紙に鑑真像が印刷されていたという。『日本国見在書目録』に「鑑上人秘方一巻」が著録されている。 誰から何を学び何を持って帰ってきたか 弘法大師・空海(774~835年)はある意味でマルチ人間といえよう。それまでの単なる学問僧、留学僧とは違い、はっきりとした目的意識を持っていた。 農文協の『日中を結んだ仏教僧』の著者頼富本宏教授は、空海が仏教・密教という宗教情報にとどまらず、現実世界の衣・食・住などの文化全般に関心を注ぎ、高度な唐文化の個別の新要素を積極的に摂取し、宗教以外の世俗文化に対しても飽くなき好奇心を抱いていたと述べている。 嵯峨天皇、橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられる空海は、書に関しても書を知り尽くし、その意義を高く評価したからこそ、長安滞在中に書跡・書具を収集した。 王羲之(321?~379?年)「蘭亭碑」、褚遂良(596~658年)「貞言英傑六言詩」、徐浩(703~782年)「不空三蔵碑」、欧陽詢(557~641年)の真跡、飛白の書など、現在の日本の書道の礎になった名家の書跡のかなりの部分が空海の将来品に含まれている。 本来留学僧は20年の留学期間だが、空海はわずか2年で切り上げた。中国語が堪能で機を見るに敏な空海は、あらゆるアンテナを駆使して情報を収集し、青龍寺の恵果(746~805年)から胎蔵と金剛界の両密教の免許皆伝にあたる伝法阿闍梨の灌頂を受け、有形無形の必需品と助言を得た。 実は空海と同じ遣唐使節に最澄(767~822年)がいた。最澄は当初から中国天台の聖地である天台山へ参詣し、現地で研究することを目的としていたため、一行と分かれて台州に入る。天台山では禅の教えを受け、国清寺の惟象から大仏頂大契曼荼羅行事を伝えられた。さらに龍興寺極楽浄土院で道邃から円教菩薩戒を受けたという。日本の仏教はこの最澄と空海あたりから独自の歩みを見せる。仏教だけではなく、日本自体も日本独自の文化を形成し始める。(広岡 純=文 若杉憲司=写真) 「人民中国インターネット版」より 2009年11月24日 |
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