中島幼八さんは6月17日に東京都で、新華社の記者に自らの体験について語ってくれた。
元中国残留孤児の中島さん(73)は、中国の養親について話すと、思わず声を失いむせび泣いた。「中国の養母の心は水のように透き通り、少しの汚れもなかった。彼女は私心なく私を育ててくれた」
中島さんはこのほど『この生あるは』という回想録を上梓し、中国における体験をつづった。彼は黒竜江省なまりの中国語で、「本を出版したのは、私を養ってくれた中国人の恩に報い、日本人にこの歴史を振り返り、真の中国人を理解してもらうためだ」と話した。
中島さんは東京生まれで、1歳の時に両親や姉と開拓団の一員として黒竜江に向かった。父は1945年に徴兵され、音信不通になった。日本の敗戦後、中島さんの一家は難民になった。食べ物が不足し、中島さんの実母はある冬の夜、飢えで息も絶え絶えな彼を、中国人の商人の王さんに託した。
王さんは天秤棒を担ぎながら、熟睡している中島さんのために家を一軒一軒回り、善意ある人を探した。「この子はかわいそうだ、私が育てよう」孫振琴という名の農家の女性は、日本の侵略者の子供であることを知りながら、一も二もなく中島さんを引き取った。
孫さんは中島さんを抱いて帰ると、腹部をもみ、噛み砕いた食べ物を与えた。日夜の行き届いた世話のおかげで、命が救われた。孫さんは13年間に渡り、3人の養父とリレーのように中島さんを大きく育てた。
中島さんは本書の中で、3人の養父について詳細に記述している。一人目は東北地区の素朴な農民の陳玉貴さんで、年決めで小作人として働いていた。中島さんをわが子同然にし、かわいがってくれたが、中島さんが8歳の時に病気で亡くなった。養母は中島さんを連れ、2人目の養父の李希文さんに嫁いだ。中島さんは12歳の年に重病にかかった。父は牛車に中島さんを乗せ、やっとのことで医者から薬をもらった。三人目の養父は、埠頭で働く肉体労働者の趙樹森さんで、中島さんが学校に通えるようにと毎月15元の生活費を与えた。
中島さんは、「この胸に刻まれる中日交流の美談は、日本国内で知る人が少ない。私のような残留孤児は3000人以上おり、多くの人がすでに亡くなっている。書かなければ、間に合わなくなった。私が書いたのは、最も素朴な中国の一般人だ。彼らは自分も貧しく苦しい思いをしていたが、私心なく善良な気持ちで私を引き取ってくれた」と話す。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2015年6月26日