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japanese.china.org.cn |23. 05. 2023 |
沖縄、石垣島を巡って考える中国、東アジアと世界
木村知義=文
「なんともやりきれない時代状況だ、米中対立というのは……」と感じることが本当に多くなりました。
米国が、あらゆる分野で、とにかく中国を抑え込んでおこうという動きが甚だしくなって、世界をいびつなものにしてしまっている、そんな感慨を抱く毎日です。とりわけ日本の私たちが暮らす東アジアにおいてそれは著しいと言わざるをえません。この東アジアの戦略環境の変容にどう向き合っていくのか、読者の皆さんと考えてみたいと思います。
石垣島の緑豊かな山麓を削って造られた自衛隊駐屯地。自然環境破壊を懸念する声も聞かれた(写真提供・本人)
「南西諸島防衛」の現場へ
3月初頭、沖縄県・石垣島から沖縄本島の「普天間飛行場代替施設」建設工事が進められている辺野古、在日米軍海兵隊基地キャンプ・シュワブ周辺を巡りました。日本の新たな国家安全保障戦略はじめ、日米安全保障協議委員会(2+2)でも強調されている「南西諸島防衛」問題を現場に立って考えてみなければと思ったからです。
石垣島では新たに開設される自衛隊駐屯地を目指しました。と言っても、自衛隊員が歩哨に立つ駐屯地入口から100㍍ほどのところで警備のガードマンが阻止線を張っていて、遠目に見たというわけですが。
この石垣駐屯地には、九州から移駐する「第303地対艦ミサイル中隊」はじめ全体で約570人が配置され、「12式地対艦誘導ミサイル」「03式中距離地対空ミサイル」に加え「中距離多目的ミサイル」などが搬入されました。これが「反撃能力」すなわち、「盾」に加えて「矛」を保持すると語られることの実体を成すものと言えるでしょう。
駐屯地開設に当たって石垣市長の中山義隆氏は「これで、鹿児島県の奄美以南の南西諸島の防衛の形が整った」と語りました。2016年の与那国島にはじまり、19年に宮古島そして奄美大島と続いた自衛隊の「南西シフト」は、石垣駐屯地開設によって「中国の脅威に対する備え」が「完備」されたことになるという理屈です。しかし、陸上自衛隊の吉田圭秀幕僚長は記者会見で「南西防衛体制の強化はまだまだ途上」と語り、さらなる増強計画を進める考えを示しています。
米国が、日本やNATO諸国そして豪州など同盟諸国を動員して軍事力の強化を促し「中国封じ込め」の強化を進める戦略がこうして南西諸島においても実行に移され、東アジアにおける地域の不安定化を引き起こしていることは、石垣島の現場に立ってみて、実に深刻だと感じたものです。
NATOのアジア化
岸田首相が昨年6月に開催された北大西洋条約機構(NATO)首脳会議に出向き、メディアの表現を借りれば、「名指しを避けながら、中国を念頭に『東シナ海・南シナ海で力を背景とした一方的な現状変更の試みが継続されている』と指摘」して、インド太平洋の安全保障に対するNATOの積極的な関与を呼び掛けたこと、さらにNATO首脳会議で打ち出された新しい「戦略概念」も、こうした文脈で読み解けば、まさに米国の戦略に呼応したものだということがくっきりと見えてきます。
また、昨年秋以来の半導体にかかわる対中国規制の強化に象徴的に見られるように、米国自身にとどまらずオランダや日本などに対しても同調を強く迫ることで、関係する国々の経済に大きな影響を及ぼすだけでなく、世界のバリューチェーン(重要な供給網)を破壊することにつながるという深刻な状況となっています。
何もかもが米国による「対中国抑止」あるいは「中国封じ込め」という文脈で動いていること、そして、これは和らぐ兆しは見えず、相当長い間こうした東アジアの「戦略環境」の変容=悪化に向き合わなければならないだろうということなのです。
時代が逆回しに
今回の沖縄行では、かつて1969年春に沖縄に出掛けた際のことがよみがえりました。当時はパスポートを所持しなければ入ることができない米国統治下の沖縄でした。日増しに泥沼化するベトナム戦争の最中、沖縄は、まさにその前線基地でした。
女性初の国会議員であり日中関係において尽力したことでも知られた高良トミさんの長女で米国留学経験があり日中友好運動に打ち込んでおられた画家の真木さんの紹介状を携えて米国民政府の民政官を訪ね、「一切写真は撮らない」という誓約の下で嘉手納空軍基地内に入ることができたのでしたが、着陸した輸送機から吐き出された兵士たちがコントロールタワー下のビルにたどり着くなり倒れ込むようにロビーの地べたで眠りこんでしまうのを目の当たりにすることになりました。その兵士たちの軍服には泥とともに血糊がこびりついていて生々しい殺戮の匂いが漂ってくる凄惨としか言いようのない光景でした。そして、当時沖縄を走る車のナンバープレートには「KEYSTONE OF THE PACIFIC」(太平洋の要石)と刻印されていました。
沖縄においては、今また、この「刻印」が象徴したように、時代が逆回しになるような事態が進んでいるという実感を強くしました。
東アジアの変容と向き合う
では、私たちはこの事態にどう向き合えばいいのでしょうか?
沖縄から戻る日、糸満市の平和祈念公園内に設置されている「平和の礎」を訪れました。ここには国籍・軍人・民間人を問わず、沖縄戦などで亡くなった全ての人々の氏名が刻まれています。日本軍国主義と米軍という二重の暴虐に犠牲を強いられた沖縄の人々の平和への希求が込められているのです。
この「平和の礎」を前に、世界を覆う戦火と対立、分断からの脱却のために沖縄ゆえに果たすことのできることがあるのではないかという一つの想念が浮かびました。それは、「中国との対決、抑止」に象徴される東アジアの戦略環境の変容を乗り越え、平和と発展の道を模索する「民による21世紀の〝バンドン会議〟」を沖縄で開催することを、いまこそ構想すべき時ではないかというものでした。
琉球王国以来の中国との交流の深さを踏まえ(当時の冊封体制、華夷秩序に対する歴史的評価についてはさまざまにあることは承知した上で)中国はじめアジアとの交流、連携の「ハブ機能」を果たす可能性を秘めた沖縄ではないだろうかということでもあります。残念ながら、米国およびその同盟国日本やNATO諸国の現状を考えるなら、現時点では、「民」によるムーブメントにならざるを得ないのですが、今や「非米世界」が世界の多数を形成する時代となっていることを考えれば、かつての「バンドン会議」における「非同盟主義」を現代の時代状況に即したものに進化させて、世界の平和と発展のための道筋をひらく「21世紀の〝バンドン会議〟」を構想することは非現実的な「夢物語」とは言えないのではないかと考えたのです。
ウクライナの戦火の一刻も早い終息はじめ、世界が平和的環境の下で相互に手を携えて発展を目指す時代をひらくために、そして、東アジアの戦略環境の根底的な転換のためにも、沖縄こそが、その舞台として位置付けられてしかるべしという今回の沖縄行からの思いを、ぜひ、読者の皆さんと共有できればと考えます。
「人民中国インターネット版」