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japanese.china.org.cn |26. 05. 2023

北京の水路をたどって~現代編~

タグ: 水路
人民中国  |  2023-05-26

馬場公彦=文写真


北京市内を流れる京密引水渠

「飲水思源(水を飲むときは水源を思う)」。いまや2200万人を擁する巨大首都の水源の巨大な需要はどうやって賄われてきたのか。新中国成立後、指導者たちが水源確保のために取り組んだのは、井戸を掘って地下水に依存する従来の方式ではなく、地表水を安定的に確保すべく、人工ダムを建設することだった。かくて1950年代初期から60年代にかけて、郊外に官庁密雲十三陵懐柔ダムが次々と建設された。このうち最大の密雲ダムの周囲は200というから、北京市の第6環状線がその中にすっぽり入るほどの広大さだ。水源のダムから、先回紹介した清朝期に飲水路として使われていた頤和園の昆明湖から流れ出る昆玉河を経て永定河引水渠に合流するまで、全長110あり、京密引水渠という。 

その水路をさかのぼってみようと、頤和園内の団城湖の北長河水門から引水渠沿いを自転車で10ほど走った。人工水路に満々とたたえられた水流は清冽で、柵で立ち入れないようになっていて、生活排水は流れ込まず、ごみ一つ漂っていない。河岸のいたるところに「飲用水源禁止遊泳釣魚」(飲用水につき遊泳釣りお断り)の注意書きがあった。 

とはいえ川幅30ほどの水路一本だけでは大都市の水瓶になりえない。地下水位は1950年代の3が2015年には33にまでなってしまった(北京自来水博物館の説明より)。難局を打開したのが、長江の水を北京に導きこむ、全長1276の人工水路建設「南水北調」プロジェクトだ。 

事の起こりは毛沢東主席だ。『毛沢東年譜』を読むと、1952年1030日、黄河ダムを訪れた際に、「南方は水多く、北方は水少ない、できることなら、少しお借りできればいいのだが」と発言した。中国の地理書を愛読し、地図を見ながら各地を視察することを好んだ毛主席の脳内には、南水北調のほかに三峡ダム、チベットラサへの鉄道建設計画など、桁外れの国土改造の発想が躍動していた。いずれも生前には実現しなかったが、その遺志は後世の指導者と人民に引き継がれた。 

58年9月、その丹江口が切り開かれ、ダムが建設され、2014年末、南水北調の三線あるうちの中線の工程が終了し、北京への通水が実現し、毎日370万立方の水を供給している。かくて北京の7割の住民はじめ7900万人に飲料水を提供し、北京の地下水位は上昇を始めた。まさに隋の煬帝や元の郭守敬の大運河開削事業を彷彿とさせる、「愚公、山を移す」の現代版である。密雲ダム湖の貯水量は増え続け、いまや水源涵養と水資源の戦略備蓄へと重点が移り、生物多様性確保にも貢献している。 

南水北調のことを話題にすると、学生たちはその偉業はわきまえている。ところが「長江から北京に流れる水を見たことはありますか」と聞くと、きょとんとしている。それもそのはず、北京市内を流れる全長80は、地下隧道となって外径6、内径4の鋼鉄製二重密閉管の中を流れているからだ。水路は頤和園西隣にある団城湖調整池に流れ込み、最後の885だけが明渠になっている。調整池の周りはよくジョギングするのだが、内部は水利局が厳重に管理しており、残念ながら長江の終着点を目にすることはできない。 

逆に学生に教えられて、北京に自来水(水道)博物館があることを知った。東直門外にあり、そこは1910年、北京で最初の浄水場が建てられた跡地である。参観して北京市の飲用水源の全体状況が分かった。北京市内外11カ所の浄水場のうち、南水北調の水は第9と郭公荘浄水場で処理されている。 

北京市水道グループは、人民を悩ませてきた水不足と水質汚染問題を克服し、地表水だけでなく、地下水、再生水などの水源を利活用しながら、日々、水資源の保護、浄化、節水、水質管理に努めている。同博物館の標語「自来水、不自来(自然の水は自ずと来るものではない)」の重さをかみしめた。 

「人民中国インターネット版」