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日本文化の中の桜 無常を感じさせる美観
発信時間: 2012-04-10 | チャイナネット

「花」が梅から桜に変わるまで 

日本で最も古い史書「古事記」と「日本書紀」には、すでに桜に関する記載がある。日本で最も古い詩歌集である「万葉集」にも、桜を詠んだものがある。とはいえ奈良時代の和歌において、「花」といえば梅を指していた。「花見」は奈良時代の貴族が行ったのが起源だが、その時代に鑑賞していた花とは、中国から伝わった梅だった。桜に取って代わったのは平安時代のことである。この変化は「万葉集」から見ることができる。「万葉集」で梅に関する詩歌は118首あるが、桜のそれは44首しかない。平安時代の「古今和歌集」で、その数は逆転する。日本が遣唐使の派遣を廃止し、唐朝が滅亡するようになると、唐風文化は廃れていく。平安時代になると国風文化が栄え、桜の人気もそれに応じて高まっていったのだ。 

桓武天皇が平安京に遷都したころ、大内裏正殿紫宸殿の前には、玉座からみて右側に橘の樹が植えられ、「右近橘」と呼ばれた。左側には梅が植えられ、「左近梅」と呼ばれた。しかし桜が好きだった仁明天皇が在位していた時代に梅が枯れ、桜に植え替えられた。これを「左近桜」と呼ぶ。これもまた、時代の変化を示す象徴的な出来事であり、日本人の美意識の変遷を示すものである。現在、京都御所もかつてに倣い、左近桜と右近橘が植えられている。 

平安時代以降、「花鳥風月」の「花」は、桜を指すようになった。この時代以降から、桜を歌った詩歌はますます増えていく。和歌の詩人のうち、特に平安時代の西行法師は桜をとても愛した。「願はくは花の下にて春死なん」という一首が有名である。今に伝わる地方の民謡にも「どうせ死ぬなら桜の下よ、死なば屍に花が散る」という歌詞があり、日本人の桜への愛着がうかがわれる。 

平安時代の嵯峨天皇は桜を非常に愛したことで知られる。「日本後紀」には、嵯峨天皇が812年、神泉苑で花宴を行ったと記載されている。記録上、最初の「花見」である。831年、花見は宮中に舞台を移し、天皇主催による定例の催しとなった。この情景は、「源氏物語」の「花宴」で描かれている。 

江戸時代以前には「花は桜、人は武士」という言葉がすでにあった。「花」といえば桜というイメージが、この頃すでに日本に根付いていたことになる。そして各地に多くの桜の名勝が出現した。園芸面での開発も大いに進み、様々な桜の花を楽しめるようになった。江戸時代末期前には、すでに300種類以上の桜が存在しており、現在は600種類以上になっている。江戸時代末期、「ソメイヨシノ」が作られた。現在日本で最も広範囲で咲き、最も日本人に愛されている桜である。明治時代以降、さらに多くの場所に桜が植えられた。この頃、全ての階層が「花」といえば桜を指すようになった。

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