1936年のベルリン大会はヒトラーによって汎ゲルマン主義の宣伝に利用され、五輪は政治化された。だが、上層にいる政治家がこのように五輪を装おうとしても、西洋社会の五輪運動はやはりアマが主流であり、根本的に変わらなかった。例えば、第2次大戦後の1948年ロンドン大会で、17歳になる米国のボブ・マシアス選手がそれに合わせ4カ月練習して十種競技で金メダルを獲得している。これはむろん彼の身体的資質が驚異的であることを物語ってはいるが、当時のトレーニングが完全に余暇を利用してのものであることをも物語っており、レベルは今日とは同等に語ることはできない。
五輪が真に政治化されるようになるのは、やはり冷戦が始まってからである。転換点は1960年のローマ大会だ。その年、米国の大統領選挙でケネディがニクソンにかろうじて勝利した。冷戦が選挙の中心テーマだった。副大統領としてのニクソン氏とゴルバチョフ氏がモスクワ博覧会の米国展示ホールで二つの制度の優劣をめぐって展開した「厨房論争」はいまだに記憶に新しい。非常に自然なことだが、五輪は両陣営が社会制度を比較する舞台となった。米国人は旧ソ連や東欧の選手には自由がないと攻撃し、後には亡命をも策動した。一方、旧ソ連も米国の弱点をつかみ取った。この人種差別のある資本主義国では、多くの五輪優勝は自らの皮膚の色のためのものであり、それどころか国内では白人と並んで公共交通機関に乗ることはできず、多くの公共の場所にも入ることはできない――。ボクシングのチャンピオン・アリはその年の五輪で優勝し、後にイスラム教に改宗して、黒人反逆者の偶像的な人物となった。こうした冷戦による圧力が、米国内の民権運動の発展と社会の変革を刺激したのは間違いなく、それは無益ではない。だが、両大陣営は自らの優越性を競うため、あらゆる極端な手段を講じるようになった。ドーピングなども、その年の五輪から害をもたらし始めている。
こうした政治化された五輪により、五輪の観賞の魅力はかなりの程度増し、地位的にも大幅に向上した。だが、冷戦末期に至って、旧ソ連軍がアフガニスタンに進攻したため、80年モスクワ大会はボイコットされた。84年には、旧ソ連・東欧諸国が再びロサンゼルス大会をボイコットしたことで五輪は一時、絶体絶命の状態に陥った。幸いにも冷戦は急速に終結、危機は解消された。だが、冷戦がなければ、両巨人が闘う場面もなかった。五輪の試合レベルは向上したものの、観賞の魅力はむしろ低下してしまった。
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