16.1933年9月にフランスで出版された雑誌『彩色植民地世界』は次のように記している。南沙諸島の9つの島には中国人(海南人)だけが住んでいて、中国人以外に他国の人はいない。当時、西南島(南子島)には計7人の住民がいて、そのうち子供は2人。帝都島(中業島)には計5人の住民がいる。スプラトリー島(南威島)には計4人の住民がおり、1930年の時よりも1人増えている。ロアイタ島(南鑰島)には中国人が残した神座、茅屋、井戸があり、イツアバ島(太平島)には人跡がなかったが、中国文字のあるの碑があり、その大意は食糧をここに運んできたが、人が見つからなかったため、それをブリキ(フランス語原文は石となっている)の下に置いた。その他の各島でも、至る所で漁民が居住した形跡がある。この雑誌はまた、太平島、中業島、南威島などの島嶼は植生が繁茂し、飲用できる井戸があり、椰子の木、バナナの木、パパイヤの木、パイナップル、パクチョイ、ジャガイモなどが植えられていて、家禽を飼育し、人が住むのに適している、と記載している。
17.1940年に出版された日本の文献『暴風の島』や1925年に米国海軍水路測量局が発行した『アジア水域航行案内』(第4巻)なども南沙諸島での中国漁民の生産・生活の状況を記載している。
18.中国は南中国海諸島および関係の海上活動を最も早くから始め、継続して管理している国である。歴史上、中国は行政区画の設置と統治、水軍巡視、資源開発、天文測量、地理調査などの手段を通じて、南中国海諸島と関係海域に対して継続的、平和的、実効的な管轄を行ってきた。
19.例えば、宋代、中国は広東・広西地区に経略安撫使を設け、中国の南部国境を統治した。宋代の曾公亮は『武経総要』の中で中国が南中国海の海防を強化するために、海洋をパトロールする水軍を設立し、南中国海を巡視したことに言及している。清代の明誼が編纂した『瓊州府誌』、鐘元棣が編纂した『崖州誌』などの著作はすべて「石塘」「長沙」を「海防」の条項に組み入れている。
20.『広東通誌』『瓊州府誌』『万州誌』など中国の政府が編纂した多くの地方誌には、「彊域」あるいは「輿地山川」という条項の中に「万州に千里長沙、万里石塘有り」、あるいは類似の記載がある。
21.中国の歴代政府はまた政府発行の地図上において南中国海諸島を中国の領土として標示している。1755年の『皇清各直省分図』の『天下総輿図』、1767年の『大清万年一統天下図』、1810年の『大清万年一統地理全図』、1817年の『大清一統天下全図』などの地図はいずれも南中国海諸島を中国の版図に組み入れている。
22.歴史の事実が表明しているように、中国人民はずっと、南中国海諸島と関係海域を生産と生活の場所とし、各種の開発・利用活動に従事してきている。中国の歴代政府も南中国海諸島に対して継続的、平和的、実効的な管轄を実施している。長い歴史の過程において、中国は南中国海諸島に対する主権と南中国海における関係権益を確立し、中国人民は早くから南中国海諸島の主(ぬし)となっていた。