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japanese.china.org.cn |12. 07. 2021

【中国共産党創立100周年】PART2 試練と挑戦克服し大国へ

タグ: 中国共産党

封建社会、封建制度を覆す戦火の中から誕生した新中国は、成立当初、国内経済がぜい弱で、人々は貧しい生活にあえいでいた。工業農業や文化科学技術のレベルはさらに貧窮し非常に立ち遅れた状態だった。一方、国際環境を見れば、米国をはじめとする西側諸国は、政治的孤立や経済的封鎖、軍事的包囲などの手段を使い、中国共産党の指導によって人民政権を樹立したばかりの新中国を圧殺しようとしていた。

このような厳しく複雑な情勢に直面し、中国共産党は毅然として全国各民族の人民を率いて新中国を建設する重責を背負った。1949年から78年まで、30年近くの苦難に満ちた模索とたゆまぬ努力を経て、中国は社会主義制度を確立し、強固にし、発展させた。さらにその後の強大化に向けて、政治や経済、文化、科学技術、外交などの分野でしっかりとした基礎を打ち立てた。

 

新中国成立後、毛沢東(右から2人目)、劉少奇(同3人目)、周恩来(左から2人目)、朱徳(左端)、鄧小平(右端)、陳雲(左から3人目)ら党と国家の指導者は全党全国人民を率いて社会主義の中国の建設に励んだ(新華社)



侵略者に抵抗し国守る戦い

昨年1019日、中国人民志願軍抗米援朝出国作戦70周年を記念する展覧会が北京で開幕した。1900点余りの展示品と540点余りの歴史的な写真を見ながら、来場者は国を守るあの戦争にタイムスリップしたような気分になった。

近代以降、中国は列強による圧迫や戦乱に苦しめられていた。新中国の成立後、中国人民は平和と安定した生活を渇望していたが、1950年6月、米国は朝鮮の内戦に武力で干渉し、さらに中朝国境まで戦火は及んだ。この危急のとき、党中央は朝鮮の党と政府の要請に応じて抗米援朝(米国に対抗し朝鮮を支援する)の決定を下した。

当時、朝鮮に赴き参戦した中国人民志願軍は、武器装備が旧式で後方支援が弱かったが、直面したのは世界最強の軍事力を誇る米国と、そこに糾合した英仏など十数カ国からなるいわゆる「国連軍」だった。

中国と朝鮮の軍民は、この双方の力の差が大きい現代戦において、2年9カ月にわたる血みどろの戦いを経て、米帝国主義を53年7月に休戦協定調印に追い込んだ。

抗米援朝戦争は、新中国のために平和建設を進める外部環境を作り出しただけでなく、中国人民の民族の尊厳を守った。まさに当時の中国人民志願軍の司令官だった彭徳懐が述べた通り、「抗米援朝が雄弁に証明したように、西側の侵略者が東洋の海岸に数門の大砲を据えれば、一つの国を占領できるという数百年間続いた時代は永遠に過去のものとなったのだ」。

平和と尊厳のために19万7653人の中国人が犠牲になった――爆薬を抱えて敵陣に飛び込んだ楊根思や、敵のトーチカの銃眼を身をていして塞いだ黄継光、味方の位置を知られないために炎に包まれてもびくともしなかった邱少雲、人民志願軍の第1陣として朝鮮に入り戦死した毛沢東の長男毛岸英……。これらの党員烈士の死を恐れない戦闘の意志と犠牲の精神は、今日まで全ての中国人に困難や苦境に打ち勝つ勇気と力を与え続けている。


「人民が主人公の国」を実現

今年5月、米国のバイデン大統領が演説で、「女性は天(世界)の半分を支えている(3)」という毛沢東の有名な言葉を引用し、ネットで話題になった。この言葉は、まさに新中国の成立間もないころに誕生した。

旧中国では、男尊女卑の封建思想が長い間、女性の解放を妨げていた。50年5月に「婚姻法」が公布され、子の意思を考慮せず親同士が決める封建的な婚姻制度を廃止し、婚姻の自由一夫一妻男女平等を基本原則とする新しい制度を実施した。その後、人々は男女平等の考え方を着実に確立していった。

当時、貴州省養龍司郷にある堡子村の女性は、村の集団労働に参加しても、男性の半分以下の報酬しかもらえなかった。村民委員会の女性担当主任の易華仙は55年、「男女の同一労働同一賃金(4)」を主張し、村全体の討論を経て、この主張は採択された。現地の女性たちの労働意欲は刺激され、農産物の生産量は3割増えたという。毛沢東はそれを知ると主張の普及を提案した上で、「女性は天(世界)の半分を支えている」という名言を言った。

党の指導の下、社会の他の分野での改革も急速に進んだ。

50年6月に「土地改革法」が施行され、地主階級が小作料の形で農民を搾取する封建的土地所有制度が廃止され、約3億人の土地を持たないか土地が少ない農民には、7億ムー(1ムーは約006)に及ぶ土地が無償で分配された。また国営企業は、人身を拘束して労働者を搾取する封建的な口入れ屋(賃金労働者に労働をあっせんする手配師)制度を消滅させ、労働組合委員会と従業員代表会議が従業員を動員組織して企業の管理に参加させた。売春やアヘンの吸飲、賭博などの封建社会の悪弊は、3年前後の取り締まりによってほぼ一掃され、社会の気風は一新された。

53年3月、「中華人民共和国全国人民代表大会および地方各級人民代表大会選挙法」が施行され、3億2400万人が有権者として登録され、中国史上初の全国的な普通選挙に参加した。各地の一線での普通選挙によって選出された地方の人民代表大会の代表は、また1226人の各民族各階層各業界の全人代の代表を選出した。

54年9月、第1期全人代第1回会議が北京で開かれ、討論を経て新中国の最初の憲法が採択された。人民代表大会制度はこれより正式に実施され、無数の中国人が長期にわたって努力して求めてきた「人民が国の主人公となる」という政治的理想がついに現実のものとなった。

第1期全人代の代表だった陳舜瑶は次のように振り返った。第1期全人代第1回会議の開催当時、党政府軍の最高指導者から一般労働者まで、皆が一堂に会して国家の大計を共に話し合った。これは中国の歴史上かつてなかったことだった。

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