「鉄人」王進喜(左)は極めて困難な状況の中で奮闘し、3年かけて大慶油田を開発した。1964年、毛沢東は「工業は大慶に学べ」という呼び掛けを発し、工業建設のブームが全国で盛んに巻き起こった(人民画報)
情熱燃やした「建設」年代
現在の中国は、すでに世界で最も完備した近代的な工業システムを確立しており、「世界の工場」と称賛されている。しかし72年前、成立したばかりの新中国に工業システムはほとんどなかった。51年、中国共産党は第1次五カ年計画(「一・五」計画)の策定に着手し、何度もの検討を経て重工業を優先する方針を定めた。
「一・五」計画は53年から実施された。中国共産党は優秀な党員を工業建設の第一線に派遣し、大勢の労働者が情熱的に建設に打ち込むよう導いた。鞍山製鉄所(遼寧省)の労働者・王崇倫や大同炭鉱(山西省)の鉱山労働者・馬六孩、青島紡績工場(山東省)の女性労働者・郝建秀をはじめとする党員たちは、それぞれの持ち場で率先して模範的役割を果たした。
その中に、共産党員の「鉄人」と呼ばれた大慶油田(黒龍江省)の石油掘削労働者・王進喜がいる。王進喜は油井掘削チームを率い、設備が不足する厳しい労働環境の中、「条件が良いならやるだけだ。悪ければ創り出してでもやる」という決意で、3年余りの時間をかけて大慶油田の開発に成功した。
ある日、王進喜の掘削チームが油井を掘っている時、石油などが吹き上がり制御不能となる暴噴が起こった。これを食い止めるには、セメントと水を混ぜた泥漿が必要だが、現場にはミキサー機がなかった。あわや爆発というとき、脚にけがをしていたにもかかわらず、王進喜は杖を投げ捨て、原油と泥漿が混じる池に飛び込み、わが身を使ってセメントをかき混ぜ始めた。王進喜のチームの作業員は、これを見て次々に泥漿池に飛び込み、全員で力を合わせて撹拌し暴噴を速やかに抑え込んだのだった。王進喜を代表とする石油労働者の努力によって、65年に中国の石油自給が実現、石油工業が国民経済の基幹産業に発展した。
「一・五」計画の期間中、多くの工業部門が次々と設立された。
53年、中国初のシームレス鋼管が鞍山製鉄所で試験圧延に成功した。54年、江西省南昌市で製造された中国初の国産飛行機が飛び立った。55年、遼寧省瀋陽市で中国初の新型旋盤が作られ、その翌年、中国初のトラック「解放」が誕生した。57年末までに、「一・五」計画で定められた大多数の目標は大幅に超過達成された。その5年間、中国の国内総生産(GDP)は年平均9・25%増加し、工業・農業総生産額に占める工業生産額の割合は農業を上回り、新中国が独立した完全な工業体系を築くための土台が打ち立てられた。
工業以外のさまざまな分野でも優秀な共産党員を数多く輩出した。河南省蘭考県党委員会書記の焦裕禄は、地元の風砂や水害、土壌のアルカリ化による貧困状況を変えるために、地元の政府職員や村民を率い、植樹や土砂対策を行い、水利施設を整備し、20万ムー余りのアルカリ性土壌の土地を美田に変えた。
この間、焦裕禄は肝臓がんを抱えながらも仕事に打ち込み、64年5月、在任中42歳で病死した。毛沢東は、「人民のために命をささげれば、死すとも名誉だ」と高く評価した。焦裕禄は党員幹部の代表であるだけでなく、その生涯はあの時代に奮闘した党員たちの縮図でもある。まさに彼らのけん引の下で、全国で国家建設の熱狂が巻き起こった。
農業と手工業において党中央は、自由意思と互恵を原則として、農民と手工業者が協同合作の道を歩むよう順序立てて漸進的に導き、農業生産合作社と手工業生産合作社を設立した。実際の運営において、協同合作は個人経営より実績が良かったため、多くの農民と手工業者に歓迎された。
資本主義商工業の改造については、「統一購入と一括販売」「公私合同経営」を採用し、資本家が引き続き企業から配当金の一部と出資分(持株)に対する配当を受ける「買い戻し」などの方法により、56年末までに生産手段私有制から社会主義公有制への移行を順調に実現。社会主義改造の完成に伴い、中国は社会主義社会に入った。