古都西安(2)
秦・漢・唐代の陵墓
西安附近には、多数の帝王の陵墓があるが、中でも秦・漢・唐のが多い。地上、地下ともに多数の文化財が残されており、まさに中国史の絢爛たる絵巻物であるといえよう。
秦の始皇帝陵と兵馬俑
中国の最初の皇帝・秦の始皇帝の陵墓は、西安市の東北30キロの臨潼県驪山の麓にある。
秦の始皇帝(紀元前259〜前210年)は姓を嬴、名を政といい、中国で最初の中央集権制国家の創始者で、領土から政治、経済、文化などの面にいたるまで、彼の統治下ではじめて統一された。彼が築きあげた中央から地方にいたる整備された専制統治体制は、その後2000年以上にわたってつづいたのである。
秦の始皇帝は即位すると、ただちに自分の墓の建設をはじめた。文献によると、建設工事は当時の宰相が企画設計し、工事は軍人の監督のもとに行われ、70万人にのぼる人夫が徴用されたという。墓室にはおびただしい珍宝が運びこまれ、外側は水銀でおおわれていた。盗難防止システムも完備し、近づく者があると、矢が一斉に発射された。当時、宮廷で子供を生んだことのない妃や女官は全員生き埋めにされ、墓室を建造した大工なども同様の運命にあった。
茂陵と霍去病の墓
秦庁のあとをついだ漢朝は、214年間つづき、その間、11人の皇帝が統治した。死後、彼らは例外なく西安附近に葬られた。そのなかで、規模の最も大きいのが西安の西40キロの興平県にある漢の武帝の茂陵である。
昭陵とその六駿馬
唐朝の19人の皇帝のうち、昭宗の陵墓が河南省にあるほかは、その外18人の墓は陜西省の渭河以北の諸県にあり、唐の18陵とよばれている。
乾陵と永泰公主の墓、章懐太子の墓
史書によれば、唐の18陵のなかで盗掘されていないのは乾陵だけである。
乾陵は西安の西北80キロの乾県県境の梁山にあり、唐の第3代皇帝の高宗・李治(628〜683年)と女皇・武則天の合葬墓である。
章懐太子の墓と永泰公主の墓は乾陵の17の陪葬墓のなかで価値ある二つの墓である。
章懐太子・李賢は高宗・李治と武則天の第2子である。李賢は有名な『後漢書』に注釈をつけ、高宗に非常に可愛がられ、軍事面の要職についていたので、武則天はすこぶる面白くなかった。
章懐太子の墓はすでに発掘され、人びとの参観に供せられている。墓は墓道、トンネル、天井、小龕、甬道、前室、後室から構成され、全長71メートル、幅3.3メートル、地下7メートルのところにある。盗掘に遭っているが、それでも600点余りの副葬品が残されており、なかでも唐三彩の陶器が多い。最も価値があるのは墓道両壁の壁画である。壁画の総面積は400平方メートルで、やく50枚の絵からなっている。
永泰公主墓の墓主は、高宗・李治と武則天の孫娘の李仙蕙である。
李仙蕙は、武則天にたいへん可愛がられ、武則天のおいの子供と結婚させて、領地千戸分を与えられていた。しかし、彼ら夫婦が、私生活面における武則天の慎みに欠けた行ないを見たり聞いたり、馬鹿にしたりして、いつもひそひそと話しているので、武則天は頭にきてしまい、彼ら二人をしめ殺してしまった。その後、仙蕙の父・中宗が即位すると、彼らの墓を乾陵に改葬し、「永泰公主」と追封した。
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