古都西安(4)
観光名所

西安碑林

 中国の書道は数千年の歴史を有し、西安碑林は数千年の間に生みだされた精粋を集めたものである。それは南城の陝西博物館内にある。

 中国には、古くから重要な通告、記録を石に彫る習慣があり、そうすることによって大衆はいつでも読むことができ、永久に保存ができた。西安は最も早くから中国文明が発達した地のひとつであり、そのため古代からの石碑の数も非常に多い。これらの石碑を良い状態で保存するために、時の政府がこれらの石碑を1カ所に集めることが宋代から始められた。その後も石碑はたくさん作られてここに集められ、今日の大規模な西安碑林の基礎となったのである。

 現在の碑林には、漢・魏・隋・唐・宋・元・明・清各代の石碑が全部で2300余り収蔵されており、これらが六つの大きな室に陳列されている。

 碑林を歩いていると、各時代の異なる芸術的風格をうかがうことができる。漢の隷書は爽快な感じの中にも素朴な味がうかがわれ、魏書はゴツゴツしているが重厚である。唐代に、書は芸術として完成したものになり、顔真卿の書は豊満、剛健、素朴の感にあふれ、柳公権の書は繊細だが力強く美しい。褚遂良の力強くてていねいな筆使いは、後世の書道家の模範となった。宋の徽宗・趙佶(1082〜1135年)の「痩金体」は繊細で格別の風格がある。元の趙孟頫、明の董其昌、清の康熙帝もここにすばらしい墨跡を残している。

 碑林にあるこれらの石刻は重貴な芸術作品としてだけでなく、史料としての文献価値も高い。一号室に陳列されている唐代の「開成石経」は、中国の「聖書」といわれる十三経を彫ったものである。唐代は、印刷術はまだ発明されていなかったので、書籍、文書類はすべて手書きであり、多くの誤りがあった。十三経は科挙試験の必須科目でもあり、誤りを放置しておくわけにもいかず、政府はついに十三経を石に彫って定本としたのである。ほかに有名なものとして『大秦景教流行中国碑』があり、これには、キリスト教ネストリウス派がキリスト教をローマから中国に伝えた経過が彫られており、文化交流の証拠となっている。

阿倍仲麻呂記念碑

 阿倍仲麻呂記念碑は唐の柱ににせてつくった漢白玉製の記念碑で、高さ3.6メートル、市内の興慶宮公園の東南隅にあり、日本の遣唐使・阿倍仲麻呂を記念して建てたものである。

 阿倍仲麻呂は日本の奈良に生まれ、716年、19歳のとき、遣唐留学生として選ばれた。2年目に遣唐使・多治比県守に随って唐に入り、太学で『周礼』『礼記』『毛詩』『春秋左氏伝』などを学習し、優秀な成績で卒業した。彼は、博学多識で、積極的に仕事をするので、玄宗皇帝に可愛がれ、「晁衡」の名を賜り、滞在中は朝廷で仕事をした。753年、帰国する途中、台風に遭い、ベトナムに漂着、再び長安に戻り、ひきつづき唐の朝廷で重要な職務につき、長安で没した。

 阿倍仲麻呂は、中日文化交流の使者であり、中日友好のために多大の貢献をした。彼は詩が得意で、その作品は中日両国で広く知られている。唐代の大詩人・李白、王維、儲光羲たちとも深い付き合いをし、お互いに詩を贈り合っていた。阿倍仲麻呂らが出発したあと、彼らが台風に遭ったことを知った人たちは、阿倍仲麻呂も遭難したものと思い、非常に残念に思って、李白は有名な『哭

晁卿詩』をつくり、兄弟のように親しかった友情をうたっている。

 西安と奈良は、昔はそれぞれの国の首都だったところから、1974年、友好都市となり、奈良市長の提案で、西安と奈良に阿倍仲麻呂記念碑が建立された。この記念碑の建立は、阿倍仲麻呂から始まった西安と奈良両市の人民の友好関係が永遠に続くことを希望したものといえよう。

華清池温泉

 華清池は、臨潼県城の南門外の驪山のふもとにあり、西安から30キロ離れている。華清池は早くも3000年前から周朝の宮苑となり、漢・隋・唐代にはここに離宮が建てられ、山紫水明の非常に静かな場所である。更にすばらしいのは華清池には有名な温泉があることである。この温泉は遅くても秦代には発見され、利用されていた。伝説によると、秦の始皇帝がある日、馬にのって驪山で遊んでいると、ふと一人の美女にあった。近づいてからかうと、彼女は大そう怒って、彼の顔につばをはきかけた。なんと彼女は神女だったのだ。秦の始皇帝の顔はみるみるうちに水泡だらけになり、それが痛くてたまらないので、神女に許してくれるように哀願すると、彼女は温泉で顔を洗うように言った。さっそく洗ってみると、痛みはたちまち消えてしまい、水泡もなくなった。華清池温泉が最も華々しく利用されたのは唐代である。玄宗・李隆基(685〜762年)はここに大規模な土木工事で新しい温泉を開発し、「四門」「十殿」「四楼」「二閣」「五湯」をつくった。玄宗とその寵妃・楊玉環はいつもここで遊んでいた。彼女の専用の浴場は貴妃池とよばれ、今もまだあって見学することができる。

 驪山の老君殿の東側に華清池の長生殿がある。ある時、玄宗と楊貴妃はかつてここで、「天にありては願わくは、比翼の鳥となり、地にありては願わくは連理の枝とならん」と誓い合った。しかし、軍人の反乱で彼らの甘い夢は無残にも打ち破れ、玄宗は楊貴妃をつれて、西に倉皇として逃げていったが、途中で、随行してきた兵士たちに国に災いをもたらした楊氏兄妹を殺すように要求された。朝廷の軍隊は動こうとしなかったので、玄宗もどうすることもできず、彼としては、泣く泣く楊玉環を自殺させ、その兄・楊国忠を殺すより仕方がなかった。

 化学的分析によれば、この温泉には、硫酸カルシウム、硫酸ナトリウムなど多数の鉱物質と有機物質が含まれ、関節炎、リューマチ、皮膚病、消化不良などに著しい効果がある。華清池には現在、湯元が4カ所あり、毎時総湧出量は120トン、泉温43度。現在、多数の浴場、温泉旅館があり、観光客に喜ばれている。

翠華山

 翠華山は、西安市の南30キロの地にあり、怪山あり、怪穴あり、湖あり、川ありで、西安からここにくると、気分が広々としてさわやかになるのを覚える。

 翠華山という名前は、ある伝説に由来する。むかし、翠華という気転のきく、手先の器用な、美しい娘がいて、潘という姓の若者と恋におちいり、結婚の約束までした。彼女の両親は早くに亡くなり、その兄と兄嫁は彼女を金持ちの妾にして、金を嫁ごうと考えていたが、翠華は承知しなかった。ある月の明るい夜、彼女は若者の家までやってきて、自分で紡いだ糸を若者の家の門前の大きな木に結びつけ、その先を持って山に登っていた。若者がその糸を見つけ、自分のところに来るよう願っていたのだが、運悪く兄が先にそれを見つけてしまい、彼女をつかまえようとしたその時、突然、山がくずれ、地が裂けて、別世界が現われ、翠華は仙人の音楽がひびきわたるなか、仙女とともに風に乗って、どこかに行ってしまい、再び戻って来なかった。

 翠華山の景色は、水湫池あたりが最もすばらしいといえる。水湫池は高山湖で、西安より800メートルも高く、面積は5万平方メートル。唐代に起きた地震で形成されたもので、青々とした水面に映し出された山の景色は絶品である。池ではボートにも乗れるし、水泳もできるし、池でとれた魚を食べることもできる。

 池の付近には素朴な山村があり、その近くに風洞がある。風洞は、二つの巨大な石でできており、中では物凄い風が吹いており、入ると体が冷えきってしまう。氷洞は風洞のそばにあり、中の方には年中とけない氷があるといわれており、やはり暑さしのぎには絶好の場所である。水湫池の西南には翠華山の滝があり、湖の水が崖のうえから2筋に分かれて落下する様子はまことに雄大であり、広く知られている。

 

五岳のひとつ――西岳の華山

 五岳とは、中国の古代の帝王が山の神を祭るために選んだ五つの山のことをいい、東岳の泰山(山東省)、南岳の衡山(湖南省)、北岳の恒山(山西省)、中岳の嵩山(河南省)、西岳の華山(陝西省)の五つの山がそうである。

 五岳で行われる祭祀は古代の人たちの大自然に対する畏敬の現われであり、全国統一の象徴でもあった。今では、そのようなことはしなくなったが、華山はそれでも依然として魅力のある山なのであり、それ故に多くの人がやって来る。山上には道教の寺もあり、これを見学すれば、中国の宗教文化に対する理解度は更に深まるに違いない。

 華山は西安の東、120キロの華陰県にあり、南は秦嶺山脈に連なり、東北は黄河と渭河に面している。標高は2100メートルで、山並みは険しく、奇峰がそびえ立ち、中国で最も険しい山といわれている。

 「古くから、華山には道は一本しかなく」、非常にせまく険しい道の連続である。

 華山の入口は「千尺幢」または「天井」とよばれ、人ひとりがやっと通れるようなせまい道で、ここから空を見上げると、まるで井戸の底にいるようであり、たとえ鉄索につかまっていたとしても、見震いするような物凄さである。ここをすぎると「群仙観」で、山の地形を利用して建てられた雄大な建物が見えてくる。寺の北側は千尋の谷、東南はきり立った鋭い岩壁で、その間にせまい切り通しがつくられ、観光客は鉄索につかまりながら570段の石段を登っていく。道教の教祖・老子が華山で修業しているとき、人びとが切り通しを開くのに苦心惨憺しているのをみて、鉄牛で一夜のうちに切り開いてしまったと伝えられている。だから、この切り通しは「老君犁溝」とも呼ばれる。ここから北峰に行くのであるが、そのためには「擦耳崖」を通らねばならない。巨石が道をすっかりふさいでしまっているので、千尋の絶壁を下にみながら、上から吊るされている鉄の鎖をしっかりとつかみ、壁の上のくぼみに足をひっかけ、壁に顔をつけるようにして登っていかねばならない。これが「天梯に登る」ことである。その前の「蒼竜嶺」は、道の幅わずか80センチしかなく、しかも両側は千仭の谷底で、人がここを通るときは、まるで平均台のうえを歩いているようである。唐の詩人・韓愈はこの道で、恐ろしさのあまり動けなくなってしまい、遺書を書いて後事を託したが、幸いに現地の役人に助けられ、事なきを得たと伝えられている。華山の四大峰といわれる東峰、南峰、西峰、中峰にはこの道を通って行かねばならない。

 中峰は玉女峰ともよばれ、春秋時代、秦の穆公の王女・弄玉が蕭史の吹く簫の音にすっかり感激してしまい、宮廷生活をほおりなげ、彼について風に乗ってここにやってきて住みついたという話が伝えられている。

 西峰には巨大な石があり、まん中に斧で割ったような裂け目が入っている。むかし、ある若者が試験を受けるために長安に行く途中、華山を通ったが、たまたま華山の仙女と会い、お互いに愛し合い、子供が生まれた。仙人と俗界の人は交ってはならないというおきてが古くからあり、華山の仙女はその兄によって、この巨大な石の下にとじこめられてしまった。彼女の息子は大きくなると、苦労して術を学び、マスターすると、斧で巨石を立ち割り、母親を救い出したと伝えられている。

 華山は道教で有名な山である。道教は老子が開いた中国固有の宗教で、古代の巫術や仙術の方法を取り入れて肉体的、精神的修練を行ない、そうすることにより、不老不死の神仙になることができると説く。華山の断崖絶壁には道教の寺が多数あり、今でも修業者が住んでいる。

2001年4月12日