端午節になると、河畔(湖畔)の地域では、竜船競漕が行われる。屈子祠村の竜船競漕は、たいそうにぎやかだ。競漕前には、竜頭を祭る儀式が行われる。村ごとに竜船の漕ぎ手たちが竜頭をかつぎ、船旗やかいを捧げ持ち、ドラや太鼓、爆竹の音が鳴りひびくなか、屈子祠の屈原像を前にして、ひざまずいて拝むのだ。
儀式が終われば、竜頭をかついで河へ飛びこみ、それを清める。それから、竜頭を船首に据えるのである。屈原を祭り、竜頭を清めることで、競漕の無事を祈るのだ。漕ぎ手たちにも端午節に身を清めることで、無病息災がかなうと考えられている。
この地方の竜船は、長さ約20メートル、幅約1・5メートル。頭を高々ともたげ、目を丸くして見張っている。船尾には、長い竹片で作った多彩な鳳凰の尾をさし、船体やかい、舵の部分に、竜のうろこを描いている。ピストルの合図にあわせて、漕ぎ手たちはそろって速くかいを漕ぎ、さまざまな竜船が水の上を飛ぶように走る。船上のドラや太鼓が鳴りひびき、両岸からは人々の歓声があがる。
激しいレースの結果、優勝を勝ちとった竜船は、地元の村に名誉をもたらすだけでなく、その村に豊作と安寧、健康をもたらすと考えられている。そのため、村々はこの竜船競漕をとりわけ重視しているのである。
伝えられるところによれば、竜船競漕は、汨羅の河に身を投げた楚国の三閭大夫・屈原のしかばねをすくったことから始まった。奸臣の誹謗のために、楚王は、内政改革をはじめ斉と連合して秦に抵抗せよという屈原の主張を受け入れなかったばかりか、かえって彼を遠ざけた。詩人でもあった屈原は、15、6年におよぶ放浪のなかで『離騒』などのすぐれた詩を書き残している。紀元前278年5月5日、汨羅のほとりで吟詠していた彼は、楚の都が秦に攻め落とされたという消息を聞いて、悲嘆にくれて河に身を投げ、国に殉じた。付近の人々は、この凶報を聞くとまもなく争って船を漕ぎ、魚から守ろうとそのしかばねをすくい上げた。これが端午節にまつわる竜船競漕の伝説である。
じっさい、こうした習わしは屈原が亡くなる前からあったという。中国民俗学の大家・鍾敬文氏は「端午節に竜船競漕を行うのは、古人が船をつかって魔物や疫病神をはらう巫術活動から起こったものだ」と考える。しかし、著名な学者である聞一多氏はこう考える。「端午節は、もともと呉越人による『竜子節』(竜の子孫の祭り)から起こった。彼らは竜のトーテムを崇拝し、船を漕いで、河の竜神に供物をささげ、雨の恵みと稲の豊作を願ったのだ」
しかし、屈原のすばらしい人徳と偉大なる詩は、後世の人々を深く感動させたので、竜船を漕いで屈原を救うという伝説が各地に広まり、人々に信じられていったのだ。宋代になると、朝廷が全国に「端午節には屈原を記念せよ」というおふれを出した。そして、人々に香袋をつけさせ、屈原の志を芳香のように永遠に残そうとしたのである。
竜船を崇拝する習わしは、各地にまだある。貴州省・清水河畔のミャオ族の竜船は、中央の一本は大きく、両側の二本は小さい三本の丸太をつないで作られている。ふつうの日には船棚に置いて、担当者が管理している。競漕前には線香をたいてこれを祭り、それが終われば、漕ぎ手たちが船をかついで河に入れる。習わしにより、竜船が村々をめぐるたびに、村人たちが河のほとりで竜船を迎え、祭祀用の鶏、アヒル、豚の肉などを竜頭に掛けるのだ。
一方の漕ぎ手たちは、船に載せているもち米のおにぎりや肉料理を、沿岸の婦人や子どもたちに分け、それによって幸せを分かちあうことを示す。広東省潮州の人々は、竜船が通過した河の水を幸福の水と見なしている。その「竜船水」を飲むと無病息災がかない、女性が竜船水で髪を洗えば、頭痛が治るといわれている。
「人民中国」より