恵通橋(上図手前)と紅旗橋(上図奥)、間もなく完成する怒江特大橋(下)(写真・賈秋雅/人民中国)
黄草壩小学校に平和の願い託し
あの凄惨を極めた戦いで、木下昌巳氏は数少ない日本軍の生存者だった。当時、伝令役だった木下氏が生きて帰れたのは、現地の人に助けられたからという。戦後、木下氏は何度も保山を訪れては、悔恨と感謝の気持ちを義捐金や物資の寄付という形で示した。木下氏の戦友で、やはり雲南で戦ったことのある照井千郷氏も、現地の多くの学校建設に寄付した一人だった。木下氏の勧めで照井氏は1999年、龍陵県の黄草壩小学校の校舎建設に資金を寄付した。
「照井さんは事前の視察、候補地の選定、竣工と、合わせて3度やって来ました。寄付金で建ったこの建物は、今もメインの校舎として使っています」と同校の楊才栄校長は話す。かつてここは交通の便が悪く、校舎も粗末で、教育レベルも遅れた地域だった。多くの児童は学校に通えず、教師が村にやって来て臨時教場で授業をするだけ。それも、一人の教師で1年生から6年生まで全てを教えていた。「校舎の完成後、学校の環境はすっかり良くなり、子どもたちは次々に学校に来るようになりました。現在は557人の小学生が学び、また、ここ数年本校出身の高校生のうちで、北京大学や清華大学などの名門大学に合格した人も数人いました」と楊校長は誇らしげに語った。
いつかこの小学校の児童が照井氏の古里を訪れるとともに、かつて炎と血にまみれたこの土地に平和の種がまかれ、友好交流という新たな花が咲き広がってほしい――楊校長はそう願っている。