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教育者・劉育新氏 一家三代にわたる中日の絆
発信時間: 2008-03-11 | チャイナネット

1978年、劉育新氏の激励のもと、四男の劉幸宇氏と三女の劉光赤氏がそれぞれ吉林大学、東北師範大学で日本語を専攻した。彼らは卒業後、幸宇氏は北京の国家機関で中日科学技術交流に従事し、光赤氏は長春の大学で日本語教育に携わった。幸宇氏は1989年、日本に留学し、1992年に修士課程を修了後、日本の商社で中日の経済交流の仕事に就き、1994年から学校法人神戸学院で中日の大学間交流や中国人留学生の指導業務に従事するとともに中国語を教えてきた。10数年来、幸宇氏は中日両国の教育、科学技術、著名人などをテーマに両国の新聞、雑誌、学術誌に20篇以上の文章を発表し、さらに徐悲鴻の研究者として名高い松谷省三氏に協力して中日文化交流を展開している。光赤氏は1985年に日本に移り住んでからずっと大学で中国語を教え、中国文化を伝えてきた。現在は上智大学、明治大学などで講師として勤務している。20数年来、彼女は日本の中国語教育の教壇に立ち、多くの中国語の人材を育成するとともに、辞典や教材の編纂にかかわったり中国語教育の研究活動を行ったりしている。さらに、彼女は在日中国人としてたびたび国際友好交流の座談会に出席したり、取材を受けたりもしている。

劉育新氏の孫娘の劉芳菲氏と中曽根康弘元首相

劉育新氏の孫娘で光宇氏の息女である劉芳菲氏は、幼少の頃から家庭の文化的雰囲気の影響を受け、日本語に親しんでいた。成績が優秀であったため、彼女は長春外国語学校から吉林大学外国語学部日本語専攻課程に推薦入学し、全国日本語弁論大会で何度も賞を受けた。1998年12月、彼女は招待に応じて中国青年の代表として日本へ行き友愛国際青年会議に参加。2000年3月には、日本の著名な反戦人士・東史郎氏に日本語でインタビューした。劉芳菲氏は、現在は中央電視台(CCTV)の著名な司会者である。07年9月、中曽根康弘元首相が率いる日中青年世代友好代表団が北京を訪問した際、彼女は人民大会堂で日中世代友好フォーラムの司会を日本語で行った。劉育新氏の外孫で劉光赤氏の息女である林夏名氏は外祖父一族の影響で、小さい頃から日本で暮らしたが、中国語をしっかり学び続け、在校中は中日交流や国際交流の活動に積極的に参加し、03年12月には日本の外務省が派遣した日本青年交流代表団のメンバーとして、北京、上海、桂林などを友好訪問した。04年1月には日本の内閣府が派遣する第16回世界青年の船の一員として、東南アジアおよびアフリカ各国で国際青年交流に参加した。05年3月には、東京青年会議所が主催した黄河両岸緑化のための植林活動に参加し、河南省霊宝市で植林するとともに中国語力を発揮して、現地の小学校の教壇に立ち、中日青少年友好交流の生きた授業を行った。林夏名氏は、今はすでに大学を卒業し、母校の獨協大学国際交流センターに勤務している。

劉育新氏は晩年、青春時代を過ごした東京を懐かしんで3度日本を訪れたが、その都度息子や娘を伴い、昔の留学の足跡を辿るのが常だった。早稲田大学では感に堪えないように大隈講堂の前にたたずみ、銀座では和光の時計台をじっと見つめ続け、日比谷公園では昔の野外音楽堂のあたりを、時間をかけてゆっくりと歩き、今の様子から昔を偲び、思いを馳せる……そんな彼が息子や娘たちに世の移ろいへの思いを語るときは、いつも後に続く世代が中日両国人民の長期にわたる友好を引き継ぎ、将来に道を開くよう繰り返し言い含めるのだった。

劉育新氏はすでにこの世を旅立たれたが、同氏が数多い子孫のなかに蒔(ま)いた中日友好の心の種はすでにあでやかな花をほころばせている。「青は藍より出でて藍より青し」の言葉通り、劉育新氏の子孫は先達を輝かしい手本として、中日友好交流の各分野で活躍中であり、両国の長期にわたる友好のために傑出した貢献をしている。

「北京週報日本語版」 2008年3月11日

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