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郭沫若とゆかりの地
発信時間: 2009-08-19 | チャイナネット

 

西四大院胡同5号

1949年2月、郭沫若は新しい政協の準備会議に参加するため香港を離れ、瀋陽経由で久しぶりに北平(北京)に入った。北平はすでに平和的に解放されていた。同じく到着した各界の著名人たちと汽車に乗り正陽門駅に向かった時、郭沫若は思わず涙があふれた。この地を出てから、いつのまにか35年が経ったが、中国は大きく変わった。

香港から北平にやって来て団欒するはずの妻と子どもたちを待ちきれず、郭沫若は中国代表団を率いてチェコの首都プラハで開かれた世界平和大会に参加したり、新政協宣言を起草したり、中華全国文学芸術工作者代表大会の開催を主宰したり、中国科学院の成立に取り組んだりしていた。翌年に入って、ようやく仮住まいの北京飯店を離れ、北京西四大院胡同5号に家を構えた。

満城漢墓にて。1968年文化大革命の逆境の中、70歳を超えた郭沫若が河北省の満城で前漢の中山靖王劉勝墓の発掘現場を視察

1972年9月末、日本の首相田中角栄一行が中国を訪問。28日、郭沫若(右端)は田中首相(右から2番目)の故宮参観に付き添う。翌日、中日両国は共同声明を出し、国交が回復した



庭の真ん中に灰色のレンガ造りの小さな建物がある。一階の間取りは対称になっている。客室を真ん中に、東と西はそれぞれガラスの衝立で仕切られている。東は書斎、西は家族の居間、寝室は廊下の北側にある。二階は、南にベランダがあり、北側は同じ大きさの四部屋に仕切られている。夏、ベランダの床の熱がそのまま一階に広がるため、建物の向こう側にある、街の通りに面した南の間が郭沫若の夏場の創作場所になった。この部屋は日陰になり、そばの一本のアカシアの木がちょうど日よけ傘のように日差しを遮った。

1950年から1963年まで、郭沫若はここで14年間を送った。この間、古典の整理では『管子集校』や『再生縁』、文学と歴史を論じた『「随園詩話」の読書メモ』や『駱駝集』などの作品もこの時期に完成したほか、『蔡文姫』と『武則天』の二冊の著名な歴史劇、唯一の映画の脚本『鄭成功』もここで改訂、脱稿した。大院胡同5号は確かに多産の地であった。残念なことに、郭沫若が大院胡同から引っ越しした後、5号の建物は取り壊され、跡地に二棟の宿舎ビルが建てられ、番地も5号から9号に変えられた。郭沫若といっしょに十数年間を過ごした、通りに面した南の間とあのアカシアの老木は幸い残っているが、にわか造りの小料理屋にぎっしりと囲まれ、もとの姿は皆目分からない。

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