ホーム>>中日両国>>社会
郭沫若とゆかりの地
発信時間: 2009-08-19 | チャイナネット

書斎机に近い窓の前に古びた日本式の木箱が一つ置いてある。1920年代末、郭沫若は国民党政府に指名手配され、日本に逃亡せざるをえなくなった。彼は驚くべき速さで詩人から古代史研究分野へ方向転換し、わずか10年もしない間に、『卜辞通纂』や『両周金文辞大系考釈』『石鼓文研究』などいくつかのハイレベルな学術著作を完成させた。これは学術分野の奇跡とされている。これらの著述は古代文字と古代器物研究、古代社会形態を結びつけたもので、唯物史観に基づく中国古代史研究のモデルとなり、また殷(商)の卜辞と西周、東周の青銅器を整理研究する科学システムも創った。

郭沫若の書斎 郭沫若と夫人が庭で瓜や豆を植えた所(写真・馮進)


1937年に抗日戦争が全面的に勃発した後、郭沫若は古代文字の著述の原稿を全部日本に残したまま、ひそかに中国に帰って抗日戦争に参加した。1957年にようやく東中国海を渡り、20年ぶりに作者の手元に戻った。この艱難、紆余曲折の足跡を記念するため、郭沫若は原稿の題名を『蒼海遺粟』とした。

郭沫若は晩年、黒いベークライトの墨汁入れ、北京印の紺のインク、普通のイタチの筆など中国ではありふれた文房具で、「文革」中に死んだ2人の息子・世英と民英の日記を8冊抄録し、父親として果てしない愛と悲しみを抄本に書き込んだ。同じくこのありふれた文房具を使って、郭沫若は『蘭亭序』の真偽に関する弁論を始め、生涯最後の訳作である『英詩訳稿』を訳し、また『李白と杜甫』を書き、人々の四人組粉砕の喜びと歓呼を書いた『東風第一枝』も完成させた。

前列の正房(北房ともいう)と後罩房(正房の後ろに立てた建物で、未婚の女性や侍女が住む)との間に南北が狭くて東西が長い小庭がある。そこに郭沫若と夫人は毎年一緒に瓜や豆、自給自足のできるヘチマとニガウリのほかに、蛇瓜もいくつか植えた。その蛇のような瓜はお客の興味を一番そそった。

瓜棚を通り抜けると、後罩房の真ん中に于立群の書道室がある。郭沫若はいつもここで夫人と一緒に書道を練習した。壁の三面には二人の傑作が飾られ、互いに輝きを放っていた。左手には于立群の小篆の掛け軸が、右手には郭沫若と于立群が力をあわせて書いた青銅器拓本の題辞と跋文である。そして真正面に郭沫若の行草『詠武則天』である。郭沫若の書は書法に深みがあり、独特な風格があるので「郭体」と称される。墨蹟『詠武則天』は彼の行草の代表作であり、文章の翻案が好きな気質と書家の古の知識を別の形で生かす洒脱さが、行間に漂っている。

当時の会議室、秘書の事務室、家族の住居にあたる部屋は、すでに陳列室に改装されており、廂房(母屋の前方の両側の棟)と後罩房の東西側の部屋に掛けられている。赤と緑が交互になっている抄手回廊(左右両側が手を組んだようになっている渡り廊下)がすべての展覧室をつないでいる。簡潔な説明が施されているおかげで、1892年に生まれ、1978年になくなった、この中国20世紀の思想文化の舞台で脚光をあびてきた文化の偉人・郭沫若の歴史絵巻を立体的に参観者に見せることができる。

「私は松の態度に倣って自分の年齢を刻み込み、両腕で抱えきれない大木となって天下の労働人民に木蔭を提供したい。たとえ途中で雷に当たったり枯れたとしても、その亡骸を貧しい人々が暖まる薪として捧げたい」と郭沫若氏は最後に穏やかな独白で参観者たちに別れを告げる。

 

「人民中国インターネット版」より2009年8月19日 

     1   2   3   4   5   6  


 
  関連記事