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徐福と吉野ヶ里とチャン文化
発信時間: 2009-11-19 | チャイナネット

徐福と吉野ヶ里とチャン文化

雲南紅河元陽県の棚田(写真・魯忠民)

 

チャン人の問題を提起するのは、最近「徐福東渡時、連れて行った3000の童男童女は羌戎から集めた」という資料を見たからである。わたしは、この可能性はかなり大きいと思う。なぜかといえば、当時、東部は何年も戦争が続き、加えて万里の長城と阿房宮など壮麗な御殿の修築によって、戸籍が凋落し、人口も危うい状態で、幼い子供は言うに及ばなかった。まして、始皇帝の性格から見れば、自分と血縁関係がある部落から人を選ぶのは理の当然である。

ここにはもうひとつ問題がある。徐福の方士(神仙)文化と古代チャン人文化とはかかわりがあるかどうかである。『倭人・倭文化・東渡文化と徐福』の文中で、かつてわたしは神仙文化は倭文化から来たと述べたことがある。今も、そう思う。したがって、神仙文化の源は間違いなくチャン文化であろう。

それでは、日本の吉野ヶ里と、チャン人あるいはチャン文化とは何らかのかかわりがあるのだろうか。つまり徐福は日本の九州の吉野ヶ里に果たして着いたであろうか。

吉野ヶ里文化とチャン文化は一脈相通じることは疑いない。問題はこの文化の伝来が間接的だったか、直接的だったかということである。

吉野ヶ里の発掘は2つの重要な意義がある。1つは、弥生時代の日本についてさらに全面的な解釈が施されたことである。というのは日本の他の弥生時代の遺跡は、弥生の600年間のある1つの時間帯を証明するだけで時代の全貌を展示することができないが、吉野ヶ里遺跡は弥生時代の前期、中期と後期にわたって全てを含んでいる。2つ目は、日本という国家の形を初めて明示したことである。『魏志・倭人伝』と『漢書地理志』の記述が正確であることを裏付けた。

 

想像空間を与えてくれる徐福と吉野ヶ里

お酒でお客を迎える、雲南紅河ハニ族の風習(写真・魯忠民)

吉野ヶ里から青銅器工場ではないかと推測できる遺跡が見つかり、高度な染織技術を持つ絹織物が出土した。そして、規模の非常に大きな市場とかなり高い規格の祭祀場も見つかった。単にこれらの設備と実物から見れば、外来文化が直接日本に影響したことは疑う余地がないが、縄文時代人がすぐにこれらの先進技術を身につけるはずはなく、ましてや複雑な系統だった管理を行うことなどできるわけがない。こうした社会の突然の変革は、外来文化が直接ぶつかることによって初めて実現可能である。しかし、外来文化は中原からだけではなく、朝鮮半島から来るものもある。出土した絹製品からみれば、三眠蚕(3回の脱皮で糸を吐き始める)の製品は多く楽浪の影響を受けている。季節と気候の影響で朝鮮半島では三眠蚕であり、中国の江南地方では四眠蚕である。日本の九州の気候と中国の江南地方の気候とは極めて似ているので、もし直接中国文化の影響を受けたとすれば、なぜ良質の四眠蚕を放棄して、質の劣った三眠蚕を育てるのか。そして、住宅は半地下竪穴式もあるし高床式建築もあることも、朝鮮半島の古い風格の影響であろう。とりわけ考えてもらいたいのは、吉野ヶ里遺跡からは今まで文字記載があるものは1つも出土していない。もし、徐福らが吉野ヶ里に着いたとしたら、間違いなく秦が統一した文字を持って行っているはずである。

文献によると、中国文字はのちに朝鮮半島から日本へ伝わったという。徐福ではなく韓国の王仁が『論語』などの書籍を日本へ持って行ったのである。というわけで、今の段階では吉野ヶ里文化は徐福らが自らつくったとは断定できない。しかし、われわれに尽きることのない美しい想像空間を残してくれた。と同時に、さらに新しい次元の探索をすることによって、中日世代の友好を発展させるよういつも励ましてくれている。

(国務院発展研究センター 張雲方)

「人民中国インターネット版」 2009年11月19日

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