2012年、中国の存在感はますます大きくなっています。春節はチャイニーズ・ニューイヤーとして日本でも既によく知られていますが、今年、アメリカや欧州で発行されている新聞・雑誌にはイヤー・オブ・ドラゴンの文字が並びましたし、世界の有名ブランドが一斉に旗艦店舗のショーウィンドをドラゴンにちなんだ新商品や赤と金で飾り立てました。中国の勢いは、経済的にだけでなく、文化的、政治的にも、世界中の注目の的です。まさに、辰年は昇り竜のように始まった感があります。
そんな中、日本と中国は、今年、国交正常化40周年を迎えました。中国では、40年前には生まれていなかった人が人口の半分以上を占めている一方、40年前のことを鮮明に覚えている人もまだまだ沢山います。様々な出来事はあったけれども、この40年は、その前の40年(1932~72年)に比べれば、日本と中国の間にしっかりとした安定した関係が保たれてきたと評価することができるでしょう。
特に、中国の改革開放が本格的に始まった80年代は、中国から経済発展の指南役として日本は高く評価され、日本側にも中国の熱い期待に出来るだけ答えようとする好意的な気分が満ちていました。80年代初頭、首都北京でも、計画停電は頻繁にありましたし、電話をかけるのは一仕事でした。極端にいえば、何もが足りない社会だったのです。この時代に、日本政府の対中国ODAは、電力、交通など経済インフラを中心に、中国の経済開発に重要な支援的な役割を果たしました。そして、中国はスポンジのように、資金、技術を吸収して行ったのです。
中国の飛躍は90年代に訪れます。94年、それまでODAなど政府資金が中心だった中国への投資は、民間資金主導に変わります。しかも、中国での生産を行うための直接投資が、急速に拡大していきます。新しい世紀になる頃、中国は、世界の工場と呼ばれるようになっていました。その後も、その勢いは衰えることなく、2010年、ついに中国は、世界第二位の経済大国になったことは、誰もが知っていることです。
では、この時期、ODAはその役割をどう変えてきたのでしょうか?急速な経済成長は、社会の様々な面に大きな影響を与えます。その中には、プラスのものばかりではありません。環境の悪化は、経済成長の典型的な負の側面として、人々の生活に大きな影響を及ぼし始めます。実は、この道は、日本も60年代に歩んできた道なのですが、日本の経験も踏まえて、中国の実情に適した環境対策を日本のODAは支援してきました。下水道施設や工場の排気対策そして都市の公共交通整備などのインフラ支援を増強するとともに、制度、政策面での協力を行うプラットフォームとして、中日友好環境保護センターの設立を行うなど、ハード面、ソフト面で支援してきました。その中心的な実施機関として、JICAは精力的な活動を展開してきました。
今年、日中国交正常化40周年の記念行事として、JICAは100の実施を目指しています。記念すべき年に、これまでのODAの成果を再確認し、JICA活動の新しい意味づけの糸口となるきっかけを掴むためです。中国に赴任してから、私は、従来の先進国から途上国への支援としてだけでなく、世界の中で圧倒的な存在感を示し始めた中国と水平関係の共同事業を進めていくマインドをJICA事業に取り込むことが求められていると強く感じていました。これまでの活動の窓を外に向けて少し開いて、企業や研究機関や地方自治体などと連携をして、「連携」と「発信」を強化していくことを、40周年の記念活動を通じてめざしています。
これまでの30年の中国側との協力事業の推進を通じて、JICAは、外交やビジネスとはまた別のパイプをもっています。この厚い基盤の上に、新しい協力の流れを生み出すことがその使命です。「温故知新」こそ、次の40年をより素晴らしいものにするためのスタートになるものと信じています。(文=JICA中国事務所 中川聞夫所長)
「中国網日本語版(チャイナネット)」2012年5月8日