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japanese.china.org.cn | 08. 07. 2014 |
これは関東憲兵隊司令部、中央検閲部による1939年の「通信検閲月報(9月)」をスキャンしたものだ。重慶大空襲に関する情報が記録されており、1939年の3日連続の空襲により25人が死亡したという。この文書は3人の子供の惨状を伝え、差し押さえ処分を受けた(7月1日撮影)。吉林省公文書館がこのほど発表した中国侵略日本軍に関する文書には、中国侵略中の日本軍による、重慶・長沙などの都市部への激しい空襲が数多く記載されている。
吉林省公文書館がこのほど発表した中国侵略日本軍に関する文書には、中国侵略中の日本軍による、重慶・長沙などの都市部への激しい空襲が数多く記載されている。
1939年の「通信検閲月報(9月)」には、アルゼンチンの雑誌「Eバルトス」が報じた、日本軍の3日に渡る重慶大空襲の悲惨な状況が記載されている。「日本の最近の空襲先は重慶だ。この初夏から3日に渡り続けられた集中的な空襲によって投下された爆弾で、1万人以上が負傷し、30世帯が焼き払われ、市街地の5分の1が破壊された……(中略)……瓦礫の下から、8人の子供の死体が発見された」
別の文書「通信郵検月報(6月)」(1939年)には、上海日報社が奉天小南関天主堂に送った新聞記事の内容が記録されている。「日本が侵略を始めてから2年余りになるが、決定的な勝利を手にしていない。日本は一般都市を爆撃することで、人々の平和な生活を脅かし続けている。重慶は武装都市でも防御型の都市でもない。日本軍の戦闘機は、この非戦闘員が集中する場所で頻繁に爆弾を投下し、無数の火災を引き起こした。投下された爆弾は1000発に達し、人々が無残にも虐殺された」
これらの文書は重慶の他に、日本軍が揚州、宜昌などの都市に空襲を仕掛けたことを記録している。「通信検閲月報(9月)」(1939年)は、日本軍の揚州、宜昌に対する空襲、英国の2隻の船舶を破壊したことを伝えている。
郵政検閲文書は、吉林省公文書館が所蔵する関東憲兵隊関連文書の重要な構成部分だ。今回発表された450件の郵政検閲文書はすべて日本語で書かれており、4万5000枚の文書が収められている。そのうち日本人の通信が50%以上を占めている。
中国社会科学院日本研究所元所長、研究員の蒋立峰氏ら専門家は、「これらの文書は憲兵隊自ら作成したもので、中国侵略の張本人・目撃者が、収録する記事を選択した。その内容は豊富で、実情を良く伝えており、真実性・客観性を持つ」と指摘した。
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