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japanese.china.org.cn | 11. 12. 2014

平和を維持するため、重慶大爆撃の歴史を銘記する

タグ: 旧日本軍 重慶 爆撃 経験者 賠償

平和を維持するため、重慶大爆撃の歴史を銘記する

高原(86)さんは記者に会うと新聞を取り出し、記事を指さし「在米華人が来年、抗戦展を催すそうだが、連絡を取ってもらえないだろうか。必ず重慶大爆撃の内容を盛り込み、多くの人にあの歴史と日本軍の暴行を知らせなければならない」と言った。重慶大爆撃被害者民間対日賠償請求原告団の団長である高さんは、訪日し歴史の知識を広め、賠償請求をしたことがある。高齢で病気がちで外出を控えている高さんは、やはり重慶大爆撃を忘れられずにいる。

旧日本軍の爆撃機は1938年2月から1944年12月に渡り重慶市を爆撃し、3万人以上の直接的な死傷者、6600人以上の間接的な死傷者を出した。財産の損失も深刻で、一般人の居住区、学校、病院、外国大使館・領事館などが爆撃を受けた。

爆撃を避けるため、高さんの一家は人の少ない江北区に引っ越した。1940年7月31日、家族が昼休みをしている時に空襲警報が鳴り響き、旧日本軍の90機余りの爆撃機が3回に分け重慶を爆撃した。高さんは、「日本軍の爆撃の重点は人口が密集する渝中区だったが、江北区を爆撃するとは思いもしなかった。私の家には7発の大型爆弾が投下された。9歳の妹は頭に爆撃を受け、破片が5歳の弟の手を貫き、母と姉が重傷を負った」と語った。高さんは当時、この爆撃に驚かされた。

旧日本軍の集中爆撃により重慶は火の海になった。火の手は数日間回り続け、どこも空襲を避ける人であふれ返っていた。

比較的豊かだった高さんの一家は、自宅に作った防空壕に身を隠した。「計算すると、防空壕に2000時間以上身を潜めていたことになる。食用油でランプをつけ、数日に渡り警報が解除されなかった。私たちはまだ良かった方で、多くの一般人は、老人も子供も荷物を持ち、公共用の防空壕に隠れていた。振り返るに忍びない過去だ……」

数十年がたち、多くの人はあの悲壮な歴史を知ることができなくなっており、経験者も一人また一人とこの世を離れている。原告団は4回提訴を行い、26回裁判を開き、188人が原告になり、うち40数人が日本の法廷で証言した。現在、判決のめどは立っていない。

高さんのリビングには、家族と大爆撃賠償請求の写真が飾ってある。高さんは、「過去を忘れないのは、歴史の真相を明らかにし、平和を守るためだ」と語った。今年は国家追悼日が初めて催されるが、高さんは家の中に電気ロウソク・線香を飾り、家族と重慶大爆撃のすべての犠牲者に黙祷を捧げている。

高さんは記者に、賠償請求書を見せてくれた。そこには、「第21回賠償請求書、世界平和と不戦を願って」と書かれていた。10ページにも及ぶ内容は高さんの直筆で、印刷後に日本の関係部門に郵送される。高さんは19年もこの賠償請求書を書き続けているが、日本からは一度も返答が得られていない。

ベランダの天体望遠鏡は、外出できない高さんが世界を見るための手段だ。高さんは「今の重慶は素晴らしく、夜景が美しい。多くの人に重慶大爆撃の歴史を知ってもらうのは、より長く平和を守るためだ」と言った時に、笑みを浮かべた。

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