林国本
さいきん、日本の雑誌で「シャンハイ・ドリーム」の中の日本人若者についての一文を読んだ。筆者は自分の体験からみて、これは「ドリーム」ではなくて、ロマン、パイオニア・スピリットをベースにしたチャレンジだと感じるのだが、どうだろうか。
中国に留学し、中国語を一応身につけ、中国の文化、社会についてより深く知るようになり、それをさらに深めるために、母国日本にもどって就職して安定したサラリーマン生活をすごすことをやめて、中国で仕事をする人生を選んだこの若者たちは、ある意味ではこれまでの一般的な日本人とは異質の存在かもしれないが、見方によっては、グローバりゼーションとか国際化を唱え続けてきた日本が生み出した新しいタイプの日本人ともいえよう。
筆者は、そのうちのかなりの人とお付き合いがあるが、本人のプライバシーもあるので、実名を挙げることは差し控えるが、中国語を専攻し、いろいろ中国と関連のある仕事に携わる中で、もっと掘り下げてみたい、深めていきたい、という気持ちが生じてくるのはよく分かるような気がする。途中で投げ出して、普通のサラリーマンとなるか、それとも将来どうなるかは別として、一つのことに人生を賭ける決断をしたのだから、その度胸、勇気はまさに若者にしかないものといえよう。筆者は自分の若い頃のことと重ね合わせて、共感を覚えるのである。したがって、それは決して「ドリーム」ではなく、ロマンであり、パイオニア・スピリットをベースにしたチャレンジだと思っている。
もちろん、「境界の政治」というコンセプトがあるように、外国人が他国で一生を過ごすことは難しい。やがては帰国して、自国の現実と向き合わなければならなくなるであろう。有権者としての存在は認められても、社会保障面では、所定の積み立てがなければ、それを享受できない。「ドリーマー」呼ばわりされるのは、あとあとの事を考えていない、という意味もあるのだろう。
筆者も若い頃はロマンとか、チャレンジとかを大切にしてきたので、この人たちを「ドリーマー」呼ばわりすることには納得しかねる思いがある。可能性に賭ける勇気のない若者は「老人」という以外にない、とも思っている。しかし、一面、好不況のある外国の社会に自分の人生を賭ける際の一抹の不安というものにこの雑誌の一文は触れている。それも一理はあろう。
筆者の場合は自分の国で仕事を続けてきたので、あとあとの事はそれほど深刻に考えてはこなかったが、もしも、他の国で一生を賭けることになれば、やはり、あとあとの事も念頭においておかないと、ロマンやパイオニア・スピリットが結局は「ドリーム」であったとならないともかぎらない。そういう意味で、筆者は、中国で自分の可能性を、と頑張っている人たちに、「攻守」ともに十分保証されるシステムの構築をすすめたい。いずれにしても、この若者たちは決して「ドリーマー」ではない。どうみても、チャレンジャーである。そういう情熱があるから若者といえるのである。
「チャイナネット」 2009年7月23日