「駝峰航路」に関する史料を見学する来場者(7月5日撮影)
太平洋戦争の勃発後、米国は中国に対する援助を強化していった。中国に経済援助を提供したほか、中国と積極的に軍事協力も行い、中国の各方面に対する支援を拡大した。米国の中国支援空軍志願隊は対日作戦に積極的に参加した。著名な「駝峰航路」は、中国と米国が協力して共通の敵に反撃した歴史的な証である。
会場には、「フライング・タイガース」の隊員の集合写真が展示されていた。70年以上前に昆明で撮影されたものである。写真の背景は、サメの歯のペイントされた特徴的な戦闘機である。1941年8月、米国政府の支援の下、米国陸軍航空隊の退役軍官クレア・リー・シェンノートは中国空軍米国義勇軍を組織し、同年12月から中国で参戦した。日本侵略者に恐れを抱かせるため、「フライング・タイガース」の戦闘機の機首下方の両側には、歯をむきだしたサメの口がペイントされた。
1942年3月、日本軍はミャンマーの首都ヤンゴンを占領した。中国への援助物資輸送の主要ルートであった雲南・ミャンマー道路が切断された。中国と米国は空中の運輸航路を切り開くことを迫られ、著名な「駝峰航路」が誕生した。1942年5月から1945年8月まで、同盟国の中国支援軍用物資はのほとんどは、中国と米国の飛行員の操縦する飛行機によってインドからヒマラヤ山脈を越えて昆明に運ばれた。「駝峰航路」では、中国に戦略物資80万トン以上が運ばれ、墜落または失踪した中国と米国の飛行機は609機、犠牲または不明となった飛行員は1500人余りに達した。