1944年の偽北京特別市労働者名簿が、北京档案館(公文書館)で展示された。名簿には人名、住所、さらには職業などが詳細に記されていた。名簿には12万人分の情報が記載されているが、北京の当時の市街地の人口は614万人のみだった(6月9日撮影)。労働環境は危険で、生活条件が悪く、病気にかかっても治療を受けられず、さらには生き埋めにされた。記者がこのほど日本軍の中国侵略に関する史料を調べたところ、日本の侵略者による中国人労働者の強制徴用および残酷な扱いが詳細に記されていた。全民族抗戦勃発78周年記念、「偉大なる勝利、歴史的貢献」展示会が、中国人民抗日戦争記念館で一般開放された。展示されている公文書には、「1931年から1945年に渡り、日本は1000万人以上の中国人労働者を強制徴用し、酷使していた」と記録されている。これらの労働者は、軍事設備の工事、道路の敷設、鉱山の開発、荒れ地の開拓、大規模な土木・建築工事に強制徴用され、非人道的な虐待を受けた。さらには多くの労働者が虐殺された。
封鎖濠の掘削は、日本軍が労働者に強制した主な奴隷的労働の一つだ。北京の延慶や昌平を例とすると、中国を侵略した日本軍は1943年の春、平北抗日根拠地に対する「治安強化」を実施した。延慶と昌平の抗日根拠地の南北のつながりを断つために、日本軍は1本の封鎖濠の建設を計画した。全長40キロの封鎖濠は、西は八達嶺長城の麓の岔道城に始まり、東は媯川の端に位置する永寧城に至る。
中国共産党北京市委員会党史研究室が実施した、抗日戦争時代の北京市の死亡者数および財産の損失に関する調査の結果によると、日本軍は1943年3月に封鎖濠を建設するため、列車を使い張家口や張北などから6000人以上の労働者を集めた。労働者は毎日17−18時間の労働を強いられ、毎月200人以上が死亡した。生活条件が劣悪で、春や夏には疫病が流行した。労働者は病気にかかっても治療を受けられず、死亡者数が激増した。日本軍は数百人の患者を地下に閉じ込めた。一部の労働者は、その中で餓死・病死した。