中国人民抗日戦争記念館で展示された、日本軍が中国人労働者を酷使する写真(7月26日撮影)。
日本軍は生存者を使い、岔道城の北西の城壁から20数平方メートル四方の、深さ10数メートルの穴を掘った。さらに枯れ草や薪を加え、ガソリンや灯油をかけた。700−800人の労働者が、相次いで焼き殺された。
北京市档案館では、日本軍が北京で作成した、1944年の労働者の名簿を目にすることができた。名簿には人名、住所、さらには職業などが詳細に記されていた。北京市档案館の展示担当者の王勇氏は、「この名簿には北京市の12万人の労働者の情報が記載されているが、北京の当時の市街地の人口は614万人のみだった。記載されている労働者は、必要が生じれば強制連行され、奴隷のようにこきつかわれた」と話した。
日本は中国を侵略中に、国内の深刻な労働力不足を補うため、「戦によって戦を継続する」という政策を採用した。
中国人民抗日戦争記念館副館長の李宗遠氏は、「日本軍は1943年から1945年にかけて、中国の占領区から4万人以上の中国人労働者を強制連行し、日本の135ヶ所の作業場で無給で酷使した。日本企業は中国人労働者に残酷な搾取と虐待を行い、多くの中国人労働者が死亡した。一部の統計データによると、中国人労働者の日本における死亡者数は6830人に達する」と説明した。