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受け継がれる創造の炎 焼き物つなぐ歴史と今

人民中国  |  2026-07-27

受け継がれる創造の炎 焼き物つなぐ歴史と今。

タグ:景徳鎮 磁器 色釉

発信時間:2026-07-27 13:48:57 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

蔡夢瑶=文  VCG=写真 

 江西省北東部の山々に囲まれた場所に、磁器で世界的に名高い小さな町・景徳鎮がある。ここで生産された磁器は、かつて宮廷に納められ、皇帝の机の上を飾る秘蔵品となった。また、海上シルクロードを経て遠く海を越え、欧州の貴族たちが競い求める東洋のぜいたく品ともなった。今日では、それらの磁器は再び庶民の家庭に戻り、食卓や茶席、本棚に並ぶ日常の器となっている。 

 磁器を焼く窯の火は、なぜこの地で千年もの間、燃え続けてきたのか。その背後には、どのような心を打つ物語が隠されているのか。今回の「美しい中国」は、景徳鎮を訪れ、「千年の磁器の都」の過去と現在を探る。 

磁器によって生まれた町 

 「磁器の都」の日常  

 夜7時を過ぎた頃、景徳鎮市陶陽新村の夜市はにぎわい始める。通り全体にほぼ同時に明かりがつき、白と温かみのある黄色の電球が一列につながれ、町の入り口から夜の闇の奥へと延びていく。 

 人の流れに沿って進むと、両側には陶磁器を売る屋台が並んでいる。 

 青い布を敷いた机の上には、磁器のブレスレットが山積みになっている。青磁釉、ピンク釉、窯変釉が明かりに照らされて柔らかな光を放っている。傍らの紙看板には「6本10元」と書いてある。隣の屋台の鉄製の棚には、無地の花瓶がずらりと並び、中に手のひらほどの大きさの磁器の花が飾られている。色は白、ピンク、黄色などがあり、花びらは光を通すほど 薄い。「10元で7本買えますよ。お好きなのをどうぞ」と屋台主が声を掛けている。 

 「うま年一番の人気、『転々馬』はいかがですか? 1個15元、運が回ってきますよ」 

 「転々(回して遊ぶおもちゃ)」を売っている屋台主が手のひらサイズの陶磁器の馬を手に取った。丸い胴体の底に開いた穴をドーナツ形の台座にはめ、軽く弾くと、くるくる回り続ける。同屋台には小さな金魚や、ひょうたん型の「転々」も並んでいる。若者たちは地面にしゃがみ込み、色を選びながら指で弾いて遊んでいる。 

 さらに奥へ進むと、タピオカミルクティー店の隣に、あまり目立たない小さな屋台がある。そこにまぶしいスポットライトはなく、温かみのある明かりに照らされた机の上に、手作りの小物が並んでいる。近づくと、焼きたてのクッキーのような、ほのかな陶土の香りが漂う。 

 屋台の向こう側に座っているおじいさんはあまり売り声を上げず、道行く人々の姿を静かに見ている。彼の前に並んでいるのは、小さな家の形をしたマグネット。赤いれんがの壁に灰色の瓦、小さな窓に温かみのある黄色の明かりが描かれている。門には「平安喜楽」と書いてある。家の輪郭は整った形ではなく、壁に少しゆがみがあり、線も真っすぐではないが、手作り作品ならではの温かみが感じられる。横にある猫や犬の手作りマグネットも、どれも頭が傾いていて、わざとはみ出したように釉薬が塗られ、筆のタッチも太かったり細かったりで統一されていない。 

 猫のマグネットを手に持って見つめている客がいた。おじいさんはなまりのある標準語で、「自分で作ったものだよ。他人のものは売らないんだ」と一言。洗練された商品であふれるこの夜市で、少し「不完全」な方が、かえって愛おしさを感じさせるようだった。 

 景徳鎮で、磁器はこのように自然に暮らしの中に溶け込んでいる。博物館の展示品にもなれば、道端の屋台で売られるブレスレットや一輪の花、手作りのマグネットにもなる。このありふれた磁器の日常は、この土地の風土が育んだものであり、千年の窯の火に鍛えられながら、代々伝わっていく。 

 山水が育んだ磁器の源  

 景徳鎮の磁器づくりの源をたどるなら、市街地の北東、瑶里ヤオリー古鎮へ足を向けよう。 

 瑶里は「磁器の都」の母なる川・昌江上流の渓谷に位置し、景徳鎮市中心部から約50㌔のところにある。古鎮は山々に抱かれ、小川が町中を貫く。石畳が川沿いに敷かれ、両岸には白壁に黒瓦の古い家並みが続く。朝霧が立ち込めると、山林と屋根がぼうっと浮かび上がり、まるでゆっくりと広がる水墨画のようだ。 

 一見静かな渓谷だが、実は陶磁器産業を支える重要な条件が隠されている。 

 この一帯の山中には磁石や高嶺土(カオリン)が豊富に眠り、それらは磁器の主原料となる。山の斜面には樹木が生い茂り、窯に必要な薪を供する。渓流は昌江に注ぎ、水力を提供するだけでなく、輸送にも便利だ。磁土、燃料、水力、水運が同じ地域にそろったことで、ここでは早くから製磁の活動が芽吹いた。 

 文献によれば、早くも漢代にはこの地で陶磁器が焼かれていたという。唐代にはこの一帯は「昌南鎮」と呼ばれ、窯業の規模は次第に拡大。五代から北宋にかけて、職人たちは伝統的な青磁の技法を土台に、新たな磁器――「青白磁」を焼き上げた。 

 青白磁は胎質がきめ細やかで、色は清らかで柔らかい光沢がある。釉薬が薄い部分は白くなり、厚い部分は淡い青みを帯び、光の下ではまるで玉のような温かみを帯びる。色があるようなないような、青でもあり白でもある。その趣から、後に「影青」とも呼ばれるようになった。 

 この磁器はたちまち市場を席巻し、昌江流域はやがて景徳鎮を中心とする製磁地帯へと育っていった。 

 皇帝から賜った「景徳」の名  

 西暦1004年、北宋の真宗・趙恒は昌南で産する磁器に夢中になり、自らの年号「景徳」をこの町に賜った。中国史上、皇帝の年号が町の名となるのはまれなことだ。 

 それ以降、景徳鎮の製磁業はいよいよ天下に知られるようになった。各地から職人が集い、技術について交流し、磁器の種類も豊かになった。それと同時に、中国の対外貿易が次第に活発化し、大量の磁器が海上貿易ルートを経て海を渡っていった。 

 東南アジア、中東、さらには東アフリカの一部の遺跡からも、宋・元時代の中国磁器が出土しているが、その相当部分は景徳鎮産だ。景徳鎮磁器の大量輸出とともに、「china」という語が磁器の代名詞となった。 

 明の洪武2(1369)年、朝廷は景徳鎮に「御器廠」を置き、宮廷専用の磁器を焼かせた。その後の数百年、景徳鎮は皇室の御窯所在地であり続けた。最良の磁土、顔料、職人が次々と昌江両岸に集まり、細分化された分業体制を持つ大規模な製磁体系が形成された。 

 御窯の品質要求は極めて厳しく、器形、文様、色合い、寸法に至るまで明確な基準があった。わずかな傷でも、民間に流出させないようにたたき割って埋めた。 

 今日、景徳鎮御窯廠遺跡の発掘調査では、大量の磁器破片の堆積層が見つかっている。かつてたたき割られた「欠陥品」は、今や明・清時代の製磁工芸を研究する重要な手掛かりだ。接合と照合を通じて、当時の器形や文様が復元され、その歴史がいっそう鮮明に人々に示されている。 

窯火を守り続ける人々 

 古代の御窯から今日の夜市の屋台に至るまで、景徳鎮と磁器の絆は途絶えたことがない。千年の窯火が今も燃え続けているのは、代々の職人たちが技を伝え、守り続けてきたからである。 

 色釉の技術を後世に伝える 

 景徳鎮の伝統磁器の代表的な種類としてよく挙げられるのは、青花磁器、粉彩磁器、玲瓏れいろう磁器、そして変化に富む色釉磁器である。 

 青花磁器は、素地にコバルト顔料で絵付けを施し、透明釉をかけて高温で焼成する。藍と白のコントラストが鮮やかだ。粉彩磁器は色彩が柔らかく繊細で、花鳥や人物の描写によく用いられる。玲瓏磁器は、薄い素地に細かな穴を彫り、そこに釉薬を埋めて焼成する。光にかざすと、星を散りばめたように見える。 

 最も難しいのが色釉磁器である。この業界には「窯に入るときは一色、焼き上がれば万色」という言葉がある。同じ釉薬でも、焼成温度や焼成雰囲気によって、まったく異なる色に仕上がることがある。 

 この予測不能な変化を研究することが、多くの陶磁器研究者のライフワークとなっている。 

 景徳鎮の名坊園に、「鄧希平色釉陶磁芸術博物館」がある。館内の作品の多くは鄧希平さんの手によるものだ。84歳になった今も、彼女は作品の前で釉薬の発色をじっくり観察している。 

 1965年、鄧さんは武漢大学化学科を卒業後、景徳鎮に赴き、建国磁器工場に就職した。当時、釉薬の調合は経験則に頼る部分が大きく、説明のつかない現象も多かった。彼女は化学分析の手法で伝統釉薬の研究を試みた。 

 ある時、工場で均紅磁器(全体が赤一色の色釉磁器)を一窯丸ごと焼き損ねた。誰も原因を説明できなかった。鄧さんは繰り返し実験を行い、素地の重量変化が釉薬の発色に影響を与えていることを突き止めた。調合と工程を調整することで、問題は解決された。 

 数十年にわたり、彼女は伝統釉薬の改良だけでなく、数十種類もの新しい色釉を開発してきた。彼女の作品は何度も国賓への贈呈品として選ばれている。 

 現在、白髪となった鄧さんは、なお工房で釉薬の調整を続け、若手を指導している。彼女にとって、陶磁器は職人技であると同時に、絶えず探求を要する科学でもある。 

 「私は生涯、ただ一つのことだけをやってきました。伝統の色釉磁器の製法を後世に伝え、途絶えさせないことです」と、鄧さんは静かながらも力強い声で語った。 

 余生をかけて築いた「瓷宮」 

 景徳鎮市浮梁県新平村の小高い丘に、数軒の円形土楼風の建物が立っている。外壁一面には色とりどりの磁器の瓶や板、欠片が埋め込まれ、陽光を受けて幾重もの釉薬がきらめいている。ここは、余二妹さんが7年かけて建てた「瓷宮」(磁器の宮殿)だ。 

 余二妹さんは12歳でおじの陶磁器工房に弟子入りして以来、生涯にわたって陶磁器と向き合ってきた。雑用係から始まり、国営陶磁器工場の技術者となり、改革開放後には自ら薪窯を築いて窯元を開いた。数十年の歳月をかけて収集した陶磁器は6万点を超え、その中には今では生産されなくなった薪窯焼成の古陶磁も少なくない。高額で買い取りたいという申し出もあったが、彼女は全て丁重に断ってきた。 

 2010年、天津に出張した際、現地の「瓷房子」(磁器の家)を見て、ふと思い立った。「景徳鎮は『磁器の都』なのに、どうして自分たちの磁器の宮殿がないのだろう」。誰も予想しなかったが、これが彼女の晩年において最も強い思いとなった。 

 81歳のとき、彼女は全財産を投じ、四方八方から資金を集め、家財まで売り払い、工事現場脇の仮設小屋に住み込んだ。自ら設計図を描き、作業員と共に壁に磁器の欠片を一枚一枚埋め込んでいった。7年の歳月を経て、1200平方㍍、3階建ての瓷宮が完成した。 

 完成後、余さんは皆を驚かせる決断を下した。瓷宮全体を地元に無償で寄付し、観光スポットとして一般公開したのだ。「瓷宮は私一人のものではありません。磁器文化を愛する全ての人のものです」 

 その後も余さんは歩みを止めず、瓷宮を中心とする建築群をさらに築き上げた。24年、彼女は93歳で静かにこの世を去ったが、瓷宮の門前は決して閑散とすることはなかった。漢服を着て、瓷宮のあちこちで写真を撮ることが、多くの観光客にとって景徳鎮を訪れる際の儀式のようになっている。 

 光と影、そして釉薬の色がこの宮殿の中で静かに交錯し、訪れる者一人一人に語り掛ける――「心に熱意がある限り、歳月は決して限界を設けない」と。 

 若き世代の「扉を開く者」 

 景徳鎮には、鄧希平さんや余二妹さんのように一生を磁器にささげる人が数多くいる。近年、ますます多くの若者が加わり、この事業に新たな原動力を注いでいる。 

 1990年代生まれの呂雅婷さんは、製磁の家系に生まれ、5代にわたり陶磁器業界に携わってきた。2014年に海外留学から景徳鎮に戻った彼女を、父親は直接釉薬工房に入れ、基礎から学ばせた。土の見分け方や窯の扱い方から始め、ほぼ全ての工房で研修を積んだ。 

 数年後、彼女は玲瓏磁器の製作工程を体系的に習得し、関連の無形文化遺産プロジェクトの若き継承者の一人となった。しかし実践の中で、彼女は一つの問題に気付いた。伝統工芸は精緻だが、現代の市場にはなかなか適応できない――ということに。 

 玲瓏磁器の肝は透かし彫りだ。職人は薄い素地に米粒大の穴を彫り、釉薬を埋めて焼成する。成功すれば、光が穴を通り抜け、星のようにきらめく。熟練の職人が手作業で彫る場合、一日に彫れるのはせいぜい数百個。目を凝らし続け、少しでも道具がずれれば、素地全体が台無しになる。生産量が増えず、価格が下がらないため、一般の人には手が届かない。 

 「この数年、私は常に『高い壁』に直面してきました。一方には、熟練の技で生み出される精緻ながら量産が難しい工芸品があり、もう一方には、安定した品質で手頃な価格の日用磁器を求める市場の需要があります」。彼女は長く考え抜き、決意を固めた。「私が『扉を開く者』になろう。窯火の魂を守りながら、量産の扉も押し開いていこう」 

 呂さんは新しい方法を試すことにした。コレクション向けの作品は従来通りの手作業を守り、一般市場向けの製品には数値制御(CNC)による精密彫刻技術を導入して透かし彫りを施し、効率を大幅に向上させた。彼女とチームは、コマのように回るカップ、倒れにくいカップ、表情の描かれたカップなど、若者に人気のデザインも開発し、「玲瓏磁器」といういにしえの技を若者の日常に届けた。 

 彼女は、無形文化遺産がただ博物館にとどまっているなら、その真の継承は難しくなると考えている。「より多くの人にとって、手が届き、使いたいと思われてこそ、この技は学ばれ続けるのです」 

 フランスから来た「景漂」 

 今日の景徳鎮は、多くの若者にとっての「ユートピア」となっている。多くのデジタルノマドやアーティストがインスピレーションを求め、低コストで起業し、あるいは人生を再起動するためにここを訪れる。「景漂」(景徳鎮に移り住んで活動する人々)の中には、海を越えてやって来た外国人も少なくない。 

 市街地南東部の陶渓川とうけいせんクリエーティブエリアは、旧国営磁器工場を改装した場所だ。現在、ここには数百の工房、ギャラリー、カフェが集まっている。週末のマーケットで屋台を出す若者の中には、金髪碧眼の外国人も少なくない。 

 フランス領レユニオン島出身の柯楊かようさんもその一人だ。欧州でアートを学んでいた頃、彼は創作に何かが足りないと感じていた。17年、初めて景徳鎮に研修に来た彼は、古い工房で60代の職人がろくろをひくのを見た。数分で一塊の土が均整のとれた碗に変わっていく。彼はその場に立ち尽くして長い間見入った。職人は一度も顔を上げず、ただ一言、「手は穏やかに、心は静かに」と言った。 

 帰国後も、柯楊さんはその光景が忘れられなかった。24年、彼は妻を連れて景徳鎮に戻り、浮梁県蘭田村に小さな庭付きの家を借りて工房とし、「景漂」生活を始めた。 

 「景徳鎮は、誰もが泥と火を中心にして回っている場所です」と柯楊さんは笑いながら語る。「どこから来たとしても、伝統を敬い、技に誠実であれば、ここの人々は皆、あなたを仲間として受け入れてくれます」 

 現在、柯楊さんのように景徳鎮に長期滞在して学び、創作する外国人陶芸家は数千人に上る。彼らは欧州、アジア、米国など世界各地から集まり、景徳鎮の磁器文化をより遠くへと広げている。 

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