15日、大船渡市で犬を抱えて廃墟を歩く男性 |
「大船渡よ、災害前の美しい景色は一体どこに行ったのだろう。疲れ、怒り、忍び泣く私を受け入れてくれたこの地での2年間だったが、11日に起きた大地震で時がとまった。今、私はこの地のために心から泣いている・・・」
これは、岩手県大船渡市に住む中国人研修生・孫進艶さんが地震後につづった日記の一部だ。中国新聞網が伝えた。
16日、同市のある避難所に中国人研修生の取材に訪れた同紙記者は、孫さんと28人の研修生仲間に出会った。
地震が発生した11日、孫さんは仲間とともに漁場の工場に出勤していた。地震でかつてない衝撃を受けた数分後、大津波がやってきた。この数分間の様子を孫さんはよく覚えている。日本人の工場長が非常口を開け、全従業員を急ぎ外に避難させた。孫さんたちは命からがら逃げる人たちをついて行き、必死で高台に走った。安全と思われる場所まで来た時、振りかえると、津波はあと10メートルのところまで迫っていた。
数日のあいだ、孫さんは仲間と大船渡市役所近くの避難所で過ごした。職場の責任者・安田俊英氏もずっと付き添ってくれた。安田氏は、「こんなに多くの女性を避難所に残して帰るのは心配だ」と話した。地震後すべてが混乱状態にあり、治安の悪化は避けられない。
同じようなケースが、田中縫製という会社でも起こった。事件後、田中淳子社長は4人の中国人研修生女性を自宅に連れ帰った。自宅も大きく揺れ、停電・断水状態だったが、皆が一緒にいれば安心だろうとの配慮からだった。田中社長は、「ほかに方法はありません。私は彼女たちの親であり、親は子供に対する責任があります」と語った。実は、田中社長の弟さんは津波で行方不明となっているが、彼女たちには知らせていないという。
津波襲来のあと、田中社長は研修生たちと一緒に縫製工場の様子を見に行った。津波が何もかもをさらっていき、建物以外何一つ残っていなかった。この様子を見た研修生たちは、田中社長にすがって長い間泣いていた。社長は、「私たちは力を合わせて、工場を再建します」と目に涙を溢れさせながらも力強く話した。
「人民網日本語版」2011年3月17日