――ライバルでもあり、友人でもある両者
1950年代に周恩来総理の提唱の下で実現した相互訪問から、1970年代に推進された著名な“ピンポン外交”、さらに相互の話し合いや交流に至るまで、中日両国の50年にわたるスポーツ交流史は、ライバルでもあり、友人でもあった歴史だと言える。
中国のスポーツ史における著名な“ピンポン外交”をよく知る人は大勢いる。国際舞台に中国が姿を見せなかったその時期を振り返り中国卓球協会の徐寅生会長は「71年の名古屋大会で後藤会長が大変なプレッシャーの中、力を尽くしてくれた。あれがなければ、その後のピンポン外交もなかっただろう」 と語った。 中日両国がまだ外交関係を樹立していなかった1970年に、当時、日本卓球協会の後藤鉀二会長は日本内外の様々な非難を受けながらも毅然として、接触と突破を求めて自ら北京へ行くことを決意した。
事実上、早くも1956年の東京世界卓球選手権から、中日間のスポーツ交流は始まっていた。72歳の元世界女王の邱鐘恵さんは、今でも空港での出迎えが忘れられないという。「世界トップの日本選手団が整列し、雨で寒いのに女子は全員きれいなスカート。予想外の待遇にとても感動した」と話す。
その前年、日本の片山哲元首相一行は中国で周恩来総理との面会を実現し、双方は民間レベルの交流を展開することで一致した。東京の世界卓球選手権はほんの手始めに過ぎなかった。1957年から、日本のサッカーチームと女子バレーボールチームが頻繁に訪中し始めた。中国も日本から体操やバレーボールを学んでいた。
|