1942年6月、日本はミッドウェー海戦で敗北し、不利な情勢を考え、連合艦隊司令官の山本五十六は艦隊司令部をチューク港に移し、同港は日本海軍の大本営となった。その後のより熾烈な作戦に対応するため、日本は同港を軍事要塞とした。その規模が米国の海軍基地・真珠湾に次ぐものだったことから、「日本のパールハーバー」と呼ばれた。戦争中、連合艦隊のあったチューク港は神秘的な様相を呈していた。
1944年2月、マーシャル海戦に乗り出そうとした際、太平洋艦隊司令官のチェスター・ニミッツはチュークの日本軍に数多くある戦闘機が米軍への反撃で重大な脅威となると考え、米軍の空中での優位性を利用して日本軍を徹底的に掃討し、その脅威を打ち砕くことを決断。同月12日、米海軍第58特別混成艦隊(艦隊司令官はニミッツ)の9隻の航空母艦が60隻余りの護衛艦に守られながら密かに海軍基地を出発、前線へと向かった。