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関係者が語る中日平和友好条約締結の舞台裏
発信時間: 2008-10-20 | チャイナネット

この時はまさに中国の政治に激変が生じた時でもあった。1976年10月、「4人組」(江青、張春橋、王洪文、姚文元)が粉砕された。1977年7月、鄧小平氏が再度政治の舞台に現れ、中日友好条約締約の交渉の仕事を自ら指導し、数多くの目的性のある効果的な仕事をし、特に「覇権主義反対条項」をめぐって福田氏が決意を固めることを促す面で、多くのすばらしい行動をとった。

その時、鄧小平氏は、「覇権主義反対」条項の核心は事実上、覇権を謀らないとともに、それに反対するというひと言であり、つまり締約当事者の双方がまず自らを制約して覇権を謀らず、同時に他のものの覇権を謀ることにも反対することであると述べた。

徐敦信氏は、国際関係の準則と国連憲章の主旨から言って、この言葉に非難の余地がなく、それは誰をも怒らせず、誰にも対応せず、覇権を謀ろうとしない人は大げさに騒ぐ必要はないが、覇権を実行しようとする人はむろん不快感をもったと語った。

その時、福田首相にはいくつかの気がかりがあった。福田首相は、中国側が「日本はすべての国と平和・友好的に付き合いたいと思っている」ことを理解してくれることを願うよう申し出た。これに対し、鄧小平氏は適時に次のように答えた。ある人が横暴なふるまいをし、覇権を実行しているのに、まさかそれに対し平和・友好的でなければならないのか?福田首相は私達の古い友人ではなく、これまでの中国との関係は私達の相互間でいずれもよく知っていたが、私達はそれに対し別に気にしない。福田首相が元田中角栄首相、元大平正芳首相と同じように私達の友人になれることを望む。首相の仕事は多忙であるが、実は、この事は1秒だけで解決できる問題であり、つまり2つの字――「締約」である。

「1秒」という談話は急速に日本に伝わり、大きな反響を引き起こした。徐敦信氏の分析では、それは事実上2つの情報を伝えるもので、1、中国側は福田首相に対し前向きの姿勢をとっていたこと、2、首相が「1秒」の決断を行うことを待っていたことであった。それは福田首相本人にとって励ましでもあれば鞭撻でもあったが、一日も早く締約することを積極的に主張していた友人たちにとっては大きな励ましであった。

 

「こんなに速いのですか!」

1978年7月21日から8月12日にかけて、中日両国の外交・外務当局は正式に交渉を再開した。22日間に16回の会談を行い、双方の間では時には白兵戦のような舌戦もあったが、中国側の代表団は鄧小平氏の「合意に達することに努めなければならない」という指示の主旨にもとづいて、原則性と融通性の結合に非常に気をつけた。

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