1921年7月23日、第1回党大会が上海で開催された。大会期間中、フランス租界警察の妨害が入り、代表たちは浙江省嘉興市に移り、南湖の遊覧船で議事日程を終えた。中国共産党の正式な成立を宣言した第1回党大会は、暗中模索していた中国革命にとって天地開闢とも言える偉大な意義があった。この遊覧船は「南湖紅船」と呼ばれるようになった。
100年前の1921年7月23日から8月初めにかけて開催された中国共産党第1回全国代表大会(第1回党大会)で、中国共産党の創立が宣言された。これは中国にとって天地開闢(1)と言える一大事だった。暗黒の半封建・半植民地社会で80年余りもがき模索していた中国人民は、ついに運命を変える道を見つけ、解放の希望を迎えた。
その後の28年間、中国共産党は中国の労働者階級の前衛隊として中国人民を率い、困難にめげず奮闘し、壮絶な戦いを乗り越え、帝国主義・封建主義・官僚資本主義という「三つの大きな山」の抑圧を覆し、「人民が国の主人公になる」新中国を樹立し、中国の新たな時代を切り開いた。
プロレタリアートの目覚め
1840年のアヘン戦争以降、帝国主義は中国への侵略の歩調を速め、腐敗した清朝政府は西洋の列強各国に不平等条約の締結を強いられ、中国は次第に半封建・半植民地社会へと転落していった。
戦乱が続いて国土は分割され、人々が飢えと寒さに耐え、奴隷化されようという時、正義を貫く多くの志士たちが次々と立ち上がり、中華民族を存亡の危機から救おうと力を尽くした。その中には、科学技術を導入して国力の増強を目指した洋務運動、武装蜂起で平等社会の実現を目指した太平天国運動、西洋式の政治制度の確立を目指した戊戌の変法があった。しかし、いずれの抗争と模索も失敗に終わった。
1911年、孫文が辛亥革命を指導し、数千年にわたって中国を支配してきた専制君主制を覆し、民主共和制の中華民国を樹立した。辛亥革命は、半封建・半植民地の社会状態と中国人の悲惨な運命を完全に変えることはできなかったが、中華民族の思想解放を推し進め、中国の進歩という流れの「水門」を開けた。
国を救うためには新しい活路を探さなければならない(2)。多くの愛国者は日本に渡り、国を救う真の方法を求めた。13年の冬、李大釗は日本に渡り、後に早稲田大学政治学科に入学した。留学中、李大釗は同じく人民のために民主と自由を求める理想を抱いていた陳独秀と知り合った。二人は日本でマルクス主義と出会い、それを中国の革命の道を照らす思想の「たいまつ」として心服した。
15年に前後して帰国した陳独秀と李大釗は、青年たちの啓発を目指した啓蒙雑誌『新青年』(発刊当初は『青年雑誌』、16年に改題)を創刊し、知識人と青年学生の中に「民主」「科学」の思想とマルクス主義を幅広く伝えた。17年にロシアで十月革命が勃発し、世界最初の社会主義国家となる「ソビエト」が樹立され、中国のマルクス主義者の国を救おうという信念を大いに鼓舞した。
しかし、19年1月に開かれたパリ講和会議によって、第1次世界大戦の戦勝国だった中国は、帝国主義に分割される危険にさらされた。会議の結果が伝わると、中国人民の積み重なった反帝国主義と愛国心の感情は火山のように爆発した。同年5月4日、北京の3000人余りの学生は天安門の前でデモ行進し、主権の擁護と不平等条約の撤廃を要求し、五・四運動の幕が開けた。
デモのうねりはたちまち全国に広がり、主力も学生から労働者に代わった。このとき、中国の産業労働者はすでに200万人に達し、彼らが全国的なストライキを起こし、全国を揺るがす力となった。五・四運動の期間中、マルクス主義は労働運動の中で急速に広まり、中国のプロレタリアート(賃金労働者階級)の革命的自覚を呼び覚まし、プロレタリアートが指導する中国の新民主主義革命は、ここに始まった。
五・四運動の後、マルクス主義を宣伝する文章は雨後のたけのこのように次々と現れた。20年5月、日本留学から帰国した陳望道は、日本語版と英語版を参考に初めて『共産党宣言』の中国語版を翻訳し、中国人に向けて史的唯物論と科学的社会主義の基本原理を全面的に系統立てて説明した。
毛沢東や蔡和森、周恩来、劉少奇らますます多くの愛国的・進歩的青年が、マルクス主義への揺るぎない信仰を持って集まった。同年8月、陳独秀や李漢俊らは上海で中国初の共産主義グループを設立した。その後、北京や武漢、長沙、済南、広州などでも結党活動が相次いで展開された。中国共産党が正式に創立される条件はすでに整った。
そして、中国共産党第1回全国代表大会は21年7月23日、上海市のフランス租界内の望志路106号(現在の黄浦区興業路76号)で開かれた。会には、国内各地方と在日中国人が設立した初期の共産党組織が選出・派遣した代表計13人が参加した。ところが30日夜、敵の密偵による情報漏れでフランス租界警察が会場を捜査し、これを包囲した。情報漏れに気付いた代表たちは事前に解散していて無事だったが、会議を続けて上海で開くことができなくなった。
そこで会議の最終日は、上海から約100㌔離れた浙江省嘉興の南湖に会場を移し、遊覧船の上で全ての議事日程を終えた。会議は中国共産党の創立を宣言。代表の一人だった毛沢東は、「天地開闢と言える一大事だ」と感激し評した。
それ以降、中国共産党は中国人民を指導して民族の独立と人民の解放を勝ち取る征途に踏み出し、中国革命は希望の曙光を迎えた。