救国へ共同で抵抗も……
31年、日本軍は「九・一八事変」を起こし、中国の東北部を占領し、さらに華北地域も狙った。35年8月1日、中国共産党は「八・一宣言」を発表し、内戦を停止し共同で日本への抵抗を呼び掛けた。この主張は社会の各界から幅広い賛同を得た。党の指導の下、全国で抗日救国運動の高まりが起こった。
全国からの政治、世論の圧力、さらに国民党内の愛国的な将校による蒋介石への忠告や監禁(西安事件)を受けて、蒋介石は36年12月、共産党に対する討伐作戦をやめ、共産党と共同で日本に抵抗することを約束した。
37年7月7日、盧溝橋事件が起こり、日本軍は全面的な中国侵略戦争を発動した。党中央は全国に向けて電報を打った――「北平(北京)と天津が危うい! 華北が危うい! 全民族が一丸となって抗戦を行ってこそ活路があるのだ!」
同年9月、蒋介石は共産党の合法的地位を認め、国共両党の協力(国共合作)を基礎とする抗日民族統一戦線を作り上げた。紅軍は国民革命軍第八路軍と新四軍に再編成され、共産党の指導の下で国民党軍の作戦に積極的に協力した。また一方で日本軍の占領区でゲリラ戦を展開し、抗日根拠地を切り開いた。
全面的な抗日戦争の初期、戦況の変化により、「速勝論」や「亡国論」などの論調が大いに盛り上がった。これに対し毛沢東は、「持久戦論」と題した5万字余りの文章を一気に書き上げた。文章は中日双方の状況を深く分析し、中国人民が長期にわたる抗戦によって最後の勝利を勝ち取る客観的な根拠を並べ、人民大衆の抗戦への信念を固め、抗日戦争の勝利に導く思想的武器となった。
抗日根拠地では、中国共産党は民主、小作料と借金利子の軽減、自力更生、経済の発展を推し進め、各階級・各階層を一つに団結させた。愛国華僑の指導者・陳嘉庚は40年、延安を訪れ、ここでは軍民が助け合い、兵士と士官が平等であり、全ての人々が活気にあふれているのを目にした。生活条件が厳しく、毛沢東は窰洞(黄土の崖を掘った横穴式住居)の中で簡単な食事でもてなすしかできなかったが、陳嘉庚は大変おいしく感じたという。当時、国民政府のある重慶で見た国民党のぜいたくを極め腐敗した様子と対照的に、陳嘉庚は「中国の希望は延安にある」と感慨深げに断言した。
45年8月15日、昭和天皇は太平洋戦争の無条件降伏を告げる「終戦の詔書」を読み上げ、中国の抗日戦争は勝利を迎えた。8年間続いた抗日戦争の中、中国共産党は抗日軍民を指導し、計12万5000回余りの戦闘を繰り広げ、日本軍とかいらい軍計171万4000人余りをせん滅し、面積約100万平方㌔、人口約1億人の解放区を打ち立て、抗日戦争の全面的な勝利のために不滅の貢献を果たした。