1928年4月28日に江西省の井岡山で合流した毛沢東率いる秋収蜂起部隊と朱徳率いる南昌蜂起部隊。この合流により、革命武力が強大になり、また中国初の農村革命根拠地を固め拡大し、全国の革命事業の発展を促す上で深遠な意義があった
不屈の精神で「革命」追求
中国共産党は、創立当初から労働者を率いて資本家の圧迫と搾取に抵抗した。23年2月、京漢線(北京-漢口)の鉄道労働者がストライキを行ったが、北洋軍閥による血なまぐさい弾圧を受け、ストライキの指導者で共産党員の林祥謙ら52人が勇敢にも犠牲になった。
ストライキの失敗を受けて、中国共産党は孫文が指導する中国国民党と統一戦線を結成することを決めた。24年1月、「国共合作」(国民党と共産党の協力体制)が正式に成立した。しかし、「連ソ・連共・扶助工農」(ソ連と提携し、共産党と提携し、労働者・農民を支援する)を主張していた孫文が25年3月12日に病死すると、国民党の指導権は蒋介石や汪精衛らの手に渡った。
27年、国共合作の指導による「列強の打倒と軍閥の排除」を目指した北伐戦争で次々と勝利していた頃、蒋介石グループは4月、汪精衛グループは7月に反革命クーデターを起こし、共産党員を公然と逮捕、殺害し、全国は白色テロに陥った。
こうした血なまぐさい嵐に見舞われても、中国共産党員は屈しなかった。党中央は、速やかに活動の重点を都市部から農村部に移し、農村で根拠地を建設し、土地革命を展開し、革命武装と労農政権を樹立する政策決定を下した。
27年8月1日、周恩来や朱徳らが率いる国民党軍の中の革命勢力は江西省の省都・南昌で武装蜂起し、国民党反動派に対抗する最初の銃声を打ち鳴らした。南昌の城壁に響き渡った銃声は、闇夜を引き裂く稲妻のように中国共産党が自ら指導する人民軍隊を創設し、独立して革命戦争を指導し始めたことを宣言した。
同年9月9日、毛沢東らは湖南と江西の省境で農民を指導して「秋収蜂起」(秋収は秋の収穫)を起こし、初めて労農革命軍の軍旗を掲げた。さらに翌28年4月、毛沢東と朱徳はそれぞれ蜂起部隊を率いて江西省の井岡山で合流し、同地で最初の農村革命根拠地を築いた。
根拠地で、中国共産党は地主の土地を没収し、統一的に分配する方法により、地主から搾取の仕打ちを受けていた広範な貧しい農民に、「耕す者が自分の田を持つ」ことを実現させた。共産党のこうしたやり方は農民たちに信頼、擁護され、紅軍に入隊することを栄誉と思い、根拠地は急速に強大化した。わずか数年のうちに全国で十数カ所の農村革命根拠地が樹立され、労農革命軍の規模も30万人ほどにまで拡大した。
31年11月、中華ソビエト第1回全国代表大会が江西省瑞金で開かれ、中華ソビエト共和国臨時中央政府の成立を宣言した。これによって、中国共産党は中国史上初の全国的な労農政権を樹立した。
「小さな火種」だった革命勢力が次第に野原を焼き尽くす勢いになるのを見た蒋介石は、国民党軍を動員し、30年から33年まで江西・福建・広東の省境にある中央革命根拠地に対して5回にわたる「包囲討伐」を行った。
34年10月、党中央は紅軍を率いて中央革命根拠地から撤退し、「長征」と呼ばれる戦略的大移転を始めた。長征途中の35年1月、党中央は貴州省の遵義で会議を開き、「左寄り」の冒険主義と教条主義の誤りを是正し、毛沢東の正しい主張と指導的地位を確立した。この会議は、再び存亡の瀬戸際で党を救い、中国革命を救った。
苦難に満ちた2万5000華里(1万2500㌔)の行軍――とうとうと流れる激流を渡り、急峻な雪山を踏破し、果てしない草原を抜け、敵の包囲・追撃に打ち勝ち、36年10月、党中央と紅軍の主力方面軍は、ついに陝甘寧(陝西・甘粛・寧夏)の各根拠地にたどり着いた。その後、中国共産党は陝西省北部の延安を中心に、中国の革命を新たな段階へと導いていく。