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青島、多様な文化が交じり合う |
発信時間: 2008-01-14 | チャイナネット |
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青島はさまざまな言い伝えが残る地である。2000年以上前には、秦の始皇帝が3度もこの地を訪れたといわれている。その後、唐代の詩人・李白や宋代の詩人・蘇東坡、有名な道士である張三豊(元末明初)や邱処機(1148~1227年)、小説家の蒲松齢(1640~1715年)などにまつわる話もある。
要塞としての青島は、明の洪武元年(1368年)に建設された。当時は「浮山所」という名で呼ばれ、海から倭寇が侵入してくるのを防ぐ重要な軍事要塞だった。浮山湾にはいつも、訓練をする明の水軍の帆船がたくさん出ていて、非常に盛観だったという。青島が中国の「ヨットの都」と呼ばれる歴史的ないわれである。
近現代都市である青島は、「東洋のスイス」「万国建築の博覧会」と称される。この都市の風格は、「赤い屋根瓦、緑の木々、紺碧の海、青い山」ともまとめられる。これはつまり、青島がスイスの静謐さと精巧さを持ち、世界各国のさまざまなスタイルの建築物を擁するからだ。青島を訪れた観光客のほとんどは、山と海と渾然として一体となったこの街の姿に感嘆する。
維新派の指導者で経学の大家である康有為は1917年、初めて青島を訪れ、この街の都市景観に魅了されたという。1924年、康有為は旧ドイツ総督官邸を好み、自分が青島にいるときの夏季の別荘として、「天遊園」と名づけた。康有為は自分の余生と栄誉を青島に残し、最も早くに「青島大学」を創立すべきだと提案した。
後の作家や学者、科学者、芸術家たちも次々と青島を訪れ、その中には、老舎、梁実秋、聞一多、沈従文、洪深、王統照などの名高い文化人や、童第周、毛漢礼、成ホウ吾、朱樹屏などの科学者や教育家が大勢いた。1930年代には、中国の著名な文化人が青島に集まって住み、「文化現象」になったこともある。
現在は、水族館や海産博物館、極地海洋世界、中国科学院海洋生物標本館、中国海洋大学がある。これらは海洋科学の研究および教学機関であり、海洋科学技術の人材を養成する場でもある。青島は、海洋科学を普及させる重要な窓口なのだ。
どの都市も、意識的または無意識に独自の都市文化を形成する。青島が最も早くに形成したのは、海上での漁と陸地での弓馬を代表とする「東夷文化」である。その後、儒学や塩・鉄の製造、海洋文化を含む「斉魯文化」が形成された。その次は、中国の南北をつなぐ「水上運輸文化」や「中継貿易文化」、多様な品種の作物を栽培する「農業文化」。続いて、「ドイツの植民地文化」が形成された。これは、ヨーロッパ風の都市建築文化、各地の人が雑居する移民文化である。南北の地方方言が飛び交い、一つの街にさまざまな習慣が入り混じり、同じ路地、同じ住宅に異なる風習の人々が住むといった民俗文化であった。
青島はこのようなたくさんの文化様式を持ち、それぞれが交じり合い、溶け合うことで、魅力あふれる都市となったのである。 人民中国インターネット版 2008年1月14日 |
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