考古発見を基礎とし、考古材料や文献を整理することで、根拠が十分で、より信用できる中国上古史の枠組みを提起した。
漢代の司馬遷の『史記』を中核として「三皇五帝夏商周」の古代史体系が形成され、数千年来、根強く信じられてきたが、1920年代の初めに「古史辨」思潮が興り、昔の古代史体系は徹底的に壊された。そこで、考古学によって中国上古史を改めて定義することが、中国考古学研究の負うべき責任となった。
河南省安陽の殷墟の発掘は1928年に始まり、1937年に抗日戦争が勃発するまで、15回にわたって発掘作業が行われた。1949年に新中国が成立すると、考古作業が再び行われるようになり、殷墟の発掘も続けられた。そして、宮殿の基礎建築跡、商王陵墓、甲骨文字、青銅器、玉器、そして鋳銅、甲骨製造などの手工業作業場の跡が相次いで発見された。このような確かな材料により、この地は商王朝最後の都城の所在地であることが証明された。さらに、1950年代に始まった鄭州商城の発見と研究により、鄭州商城は商王朝の開祖湯が建設した都「亳」であることが証明され、これによって商王朝の存在が伝説から事実へと変わった。
歴史書には商王朝の前には夏王朝があったと記載されている。夏王朝は本当に存在したのだろうか? 鄭州商城の発見と発掘により、商より前の時代の史跡探しが始まった。1959年、河南省偃師の二里頭、山西省夏県の東下馮などの遺跡の発掘・研究が始まった。学者たちは、二里頭遺跡は夏王朝最後の王・桀の都城「斟尋」の所在地ではないかと考えていた。1983年に偃師商城が発見されると、学術界は鄭州商城、偃師商城、偃師二里頭遺跡の三つを総合的に研究して、次のような結論を出した。二里頭遺跡は夏の都の「斟尋」、鄭州商城は湯が建設した「亳」、偃師商城は湯が夏を滅ぼした後に夏の遺民を監視するために建設した「西亳」。これは夏王朝研究の重大な成果である。
中国上古史を改めて定義するために、1930年代、周秦文化の起源をめぐる発掘作業が始まった。70年余りの努力の結果、これまでに周原、豊鎬、成周、周公采邑、及び斉、魯、滕、薛、虢、応、燕、晋、芮、邢、鄭、蔡、秦、楚、徐、黄、鍾離、呉、越などの宗周と封国の都邑あるいは墓葬遺跡が発掘されており、それぞれの文化の発展の軌跡がほぼ整理され、その社会構造や礼制、文化の様相が明らかになっている。
夏、商、周を中心とする中国上古史の枠組みの基礎の上に、「夏商周断代プロジェクト」による年代系譜の推定、文献の整理、考古学、炭素14年代測定法などの研究成果が加わり、夏商周年表が作成された。この年表はまだ正確性に欠けるが、これによって中国の上古史は漠然とした伝説ではなく、信用できる歴史であることが示されたのである。
「チャイナネット」 2009年8月31日