もし村上春樹が今年ノーベル賞を受賞していれば、物理学賞を受賞した梶田隆章氏と、医学賞を受賞した大村智氏についで、日本で今年3人目のノーベル賞受賞者となった。そのため日本のメディアは異常な盛り上がりを見せ、今年も村上氏の家の前で取材陣が待った。結果は、受賞を逃すことになった。「文学界のレオナルド・ディカプリオ」と呼ばれるほど、ノーベル賞に近い存在ながら受賞できない原因は複雑だが、はっきりしていることもある。スベトラーナ・ アレクシエービッチ氏の受賞は天の時、地の利が働いたためだが、村上氏本人の「問題」も少なくない。村上氏は長年、ブックメーカーでは常に上位5人の中に入るなど人気は高かった。しかしノーベル文学賞の選考委員の間ではそうでもなさそうだ。
欧米の一般読者の間での認知度が最も高いアジアの作家として、村上春樹の書籍は、純文学作家とは思えないほどの販売量を世界中で誇る。しかしスウェーデン・アカデミーの評議委員の一人であるホラス氏は、古典文学に対するこだわりを持ち、最近の大衆文化は古典文学を徐々に駆逐していると考えている。そのためホラス氏は流行の文学をゴミ扱いしているようだ。中国人作家の莫言氏が、人気だった村上氏を打ち負かしたことが恰好の例として挙げられる。ノーベル文学賞評議委員たちにとって莫言は、ガルシア・マルケスのような古典的な文学作家だった。古典文学の重要な特徴として、「ボキャブラリーの豊富さ」と「物語性以上に文学性があること」が挙げられる。評議委員たちは、良い小説はじっくり読み、内容を詳細に吟味するものであり、サクッと読むものではないとも考えている。スウェーデン・アカデミーは一貫して文学を高級文化として見る観点を持ち、流行文化に栄誉を与えようとはしていない。
ノーベル文学賞評議委員会で5人いる中心人物の一人であるホラス氏は、かつて村上春樹をこう評した。「村上春樹は典型的な流行文学作家だ。流行作家は市場に迎合しており、その作品は実用的だ。読者は本を身近な場所に置き、読んでいる間は感情移入ができる。読み終われば捨ててしまえばいい。作家の名前を覚える必要すらないかも知れない。もちろん人々は村上春樹という名前を憶えている。しかし書くものは似たり寄ったりなため、覚えられてはいない」と。彼にとっては、村上氏は結局流行作家でしかないようだ。そしてノーベル文学賞は厳粛な文学賞である。村上氏の作品が30~40カ国で好評を博しているといえども、読者は作品の文学性や言語的風格に魅せられているわけではない。その多くが一風変わったストーリーとポストモダンな雰囲気、歴史的批評性を愛している。この面で見ると、村上氏の作品はアメリカの読者に受容されやすい。それは村上氏がアメリカの都市大衆流行文化と近いからだろう。しかしアメリカの似たような優秀な作家たちもノーベル賞を受賞できていない。
村上氏がノーベル文学賞を受賞できない主観的理由が以上だとすれば、客観的理由は中国の主たる村上作品の翻訳者で研究者の林少華氏が提起している。彼は簡単な言葉で表現する。「これは運命なのだ」。林少華氏によれば、村上氏の洗練されたユーモアを持った叙述は、翻訳過程で抹消されてしまうのだという。日本語の中では新鮮で愉快な特徴が、英語に翻訳されると消えてしまう。ノーベル文学賞の審査では英語の翻訳に違いない。これは村上のせいではなく、翻訳者のせいでもない。運が悪いだけなのだ。
それは村上氏だけではない。同じような運命を持つ作家には、アメリカのフィリップ・ロスがいる。彼は長年候補者として名を連ね続けている。また、あの名高いミラン・クンデラもその一人だ。ノーベル賞が検討されているとすれば、まず彼らが優先されるだろう。若い村上氏はもう少し待とうではないか。(文:陳夢渓)
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2015年10月13日