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特別寄稿:風を巻き起こす宮崎アニメ
発信時間: 2007-03-19 | チャイナネット

 宮崎駿監督のアニメーションの流行は、現代日本の重要な文化現象と言える。その作品は中国でも高い人気を呼んでいる。多くの若者たちがその作品に魅せられてしまい、また、それをきっかけに日本語を勉強し、日本文化の研究を志す若者もいる。

2005年に、まだ「ハウルの動く城」が公開されていない時期だが、北京大学出版社の日本語教科書『総合日本語』の編集者から、宮崎駿に関連する精読文章の執筆を依頼された。限られた字数で、如何にその作品の魅力と思想性を伝えるのかを苦心した結果、宮崎駿のコスモロジーを構成する重要なエレメントの「風」に絞って、文章をまとめた。

もともと中国人の日本語学習者のために書いた文章だが、東京のある中学校の一年生に国語の授業で読まれた。しかもその後に、百数十名の学生から鉛筆で綴った感想文をもらった。宮崎アニメへの溢れんばかりの思いが語られていて、絵まで書き添えた学生も少なくなかった。優れた文化製品の持つ力と、国境を越えた文化交流の意味を改めて感じさせられた。

風を巻き起こす宮崎アニメ

宮崎駿のアニメーション映画では、風の要素が欠かせない。野原の草や田畑の稲が風になびき、また登場人物の髪の毛も服の裾も風にそよぐ。まるで宮崎駿自身の作詞による、映画「となりのトトロ」のイメージソング「風のとおり道」に歌われた通りである。

森の奥で 生まれた風が

見えない手 さしのべて 麦の穂

フワリ かすめ あなたの髪を

ゆらして 通り過ぎてく

静止した絵に動きを与えることが、アニメーションの使命である。風を取り入れることで空気と環境の刻一刻の変化を表現することが、人物の動きを描くのと同様に、アニメ制作の自然な手法だと考えられる。だが、宮崎アニメの風は、方法論の問題だけには止まらない。

「天空の城ラピュタ」のオープニングには、ラピュタ文明の変遷を写した銅版画風の映像がある。そして、風の女神が雲の間から姿を表し、息吹でラピュタの大地に生命を吹き込む。人類の文明が自然の懐の中で育まれたことが視覚的なイメージで表現された。「風とともに生きる」こと、すなわち自然との共生が、宮崎アニメの一貫した主題なのである。

「風の谷のナウシカ」では、自然そのものの表象としての風が、主役的な要素になっている。海から吹く風によって瘴気の毒から守られている「風の谷」では、風車の回転が生命の営みの存続を意味している。村を破滅から救った王女ナウシカ。彼女の生れつきの自然との一体感が、メーヴェで空中を軽快に舞うその姿に端的に示された。風に乗って空を飛ぶことは、自然と一体化することの象徴にほかならない。

もちろん、飛翔シーンが定番になっている宮崎アニメでは、風使いに長けるのは、ナウシカだけではない。箒に跨って旅立つ「魔女の宅急便」のキキも、赤の飛行艇を駆って賞金稼ぎする「紅の豚」のポルコも、自由自在に空を飛ぶキャラクターなのだ。

ところが、「千と千尋の神隠し」の主人公はごく普通の十歳の少女に設定されている。彼女は、ナウシカや魔女キキなどの超能力的な人物のように思うままに風を操る力がない。千尋が驚きと恐れのために体が動けなくなったときに、助け役の謎の少年ハクが彼女に次のような呪文を掛けた。「そなたの内なる風と水の名において、解き放て」と。そこで、千尋がハクに連れられて疾走し、また地面すれすれに風を切っていた。この場面の風とは、十歳の少女の体に潜んでいる生きる力の異名なのだ。この生きる力を取り戻す物語の中でも、風は相変わらず重要なメタファーになっている。

「となりのトトロ」では、メイとサツキが夢の中でトトロに体に乗って、満月の夜空を飛び回るという印象的なシーンがある。足元を急速に掠めていく田畑を見て歓声を上げながら、サツキが妹に「メイ。わたしたち、風になっている!」と叫ぶ。空を飛ぶことの究極的な意味と、宮崎アニメにおける「風」の秘密を、この一言のセリフが暗示しているのではないのか。

空を羽ばたきたいとひそかに夢想している人間に、登場人物とともに「風になる」空間を提供してくれたからこそ、われわれは宮崎アニメに心地よい解放感と深い感動を覚えるのに違いない。

 (作者は北京外国語大学の秦剛助教授)

 

 
 
絵まで書き添えた学生の感想文(作者の提供による)

「チャイナネット」

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