ドキュメンタリー映画「嗚呼 満蒙開拓団」の鑑賞会が北京で開催

発信時間: 2010-01-25 | チャイナネット

「嗚呼 満蒙開拓団」鑑賞会実行委員会が主催し、自由工房、北京日本人会が共催したドキュメンタリー映画「嗚呼 満蒙開拓団」の鑑賞会が23日午後、北京の日本文化センターで開催された。

日本の羽田澄子監督がメガホンをとった「嗚呼 満蒙開拓団」は、2008年キネマ旬報文化映画ベストテン第1位、2008年日本映画ペンクラブ賞文化映画部門ベスト1、平成21年度文化庁映画賞文化記録映画大賞を受賞した映画で、黒竜江省にある「方正地区日本人公墓」を中心に、当時の満蒙開拓団の関係者のインタビューを記録している。

 

満蒙開拓団は1931年、満州事変以後に日本政府の国策によって中国大陸の旧満州や内モンゴルに入植した日本人移民。ソ連参戦後、開拓団員27万人中8万人以上が帰国できずに中国で亡くなった。「方正地区日本人公墓」が作られたのは、1963年に周恩来総理がハルビンの方正県政府に、日本へ戻ることなく亡くなった人たちの墓地を作ように命じたことによる。今では毎年、多くの日本人がこの「方正地区日本人公墓」を訪れ、中国の養父母や友人と会うなど中日両国の友好の場となっている。

今回の鑑賞会には、「方正地区日本人公墓」の建設に参加した趙喜晨さんが招かれ、「方正地区日本人公墓」を建設した当時の方正県の情況や、特別な年代に生きた中国人として、日本人のために墓地を作った時の気持ちなどを以下のように語った。

「私は日本人墓地の建設に最初から最後まで参加しました。当時、方正県はとても貧しく、最終的にハルビンで記念碑の材料や書道家を探したほどです。1959年から1961年の中国は物資も非常に不足しており、書道家へのお礼もお金ではなくお酒でした。記念碑が完成すると、今度は運ぶのが問題で、道路が完備されていなっかたことから水路で運ばなければなりませんでしたが、その時はちょうど渇水期にあたる5月で、私は毎日、早く雨が降るようにと祈っていました。そして8月になってやっと記念碑を方正県に運ぶことができたのです」

「当時の中国は愛国主義教育を普及すると同時に、国際主義教育を普及していました。また社会主義社会の建設には、中国の力だけではなく国際社会の力も必要としていて、もちろん日本の力も必要でした。中央政府が決定した事を私たちは十分に理解しています。中国は人道主義から出発し、亡くなった日本人の遺骨をそのまま埋めるだけでなく、墓地や記念碑を建てしました。日本が中国を侵略したことは歴史的事実で、日本人の気持ちを考慮すると同時に、中国人の気持ちと感情をさらに考えなければなりませんでした」

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