黄柳霜さんは当時、得られた役は卑しい身分のモンゴル人の女奴隷でなければ、白人に捨てられた名もない情婦だった。衣装は太ももが隠せないほど短いチャイナドレスだった。
早期のハリウッドにおけるオリエンタルというものは、日本、エジプト、中国の要素をこじつけて融合させたおかしななものだった。中国女性の黄柳霜さんは1928年、ヨーロッパの芸能界で新しい道を求めにいった。その後、彼女はその大胆さや洗濯屋の娘がもつ勤勉さ、忍耐強さでヨーロッパで成功、招請を受けてイギリス王室のパーティーにも参加している。
その時代、中国人女性がこのような栄光を獲得することはまるでおとぎ話のようだ。1936年春、黄柳霜さんは、ようやく一度も足を踏み入れなかった故郷の上海市に帰った。その後、米国に戻ってすぐ抗日戦争が勃発した。心配した彼女は映画界のパーティーでも、チャリティ大会でも、中国で購入した真珠や宝石などを出してチャリティバザーで販売した。そこで得たお金は全部1939年に中国に送金し、抗日戦争を支持していたという。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2012年2月21日