新中国の建国から1960年代初頭まで、中日両国の関係は貿易、文化交流などの面で大きな進展を見せた。この時期、中日両国の友好は民間主導の形で促進されていた。
1958年5月、長崎切手展で日本の右翼の若者が中国の国旗を引き降ろすという長崎中国国旗事件が起こり、中日両国間にすでに培かわれていた友好的な雰囲気は破壊された。この厳しい情勢に直面し、先見の明のある日本政界の人士は、日中関係の改善を図ることに努めた。最初に訪中したのは、日本の石橋湛山元総理大臣である。これに次いで、1959年10月、周恩来総理の招請で、日本の著名な政治家、松村謙三氏が訪中した。松村謙三氏は富山県の出身で、1928年に衆議員に当選し、戦後は文部大臣、農林大臣を歴任した。周恩来総理は松村謙三氏との会見で、中日両国は「平和共存五原則」を基礎に、互いに友好的に付き合うすべきで、決して敵視しあうすべきではない。中日両国は徐々国交を回復するようにしなければならないと、繰り返し語った。
松村謙三氏は帰国後、高碕達之助氏に1960年10月の訪中を促した。高碕達之助氏は元通産大臣で、1940年からの5年間、中国の東北地区で過ごしていた。中国と浅からぬ縁を持つ高碕氏は、1955年に日本政府代表団を率いてバンドン会議に出席した際にも、周恩来総理と会見していた。それから5年後、高碕達之助氏の訪中が実現する。この時、周恩来、陳毅、廖承志らは、松村氏の訪中の時と同様、高碕氏と数回にわたり長時間の会談を行っている。
1962年9月、松村謙三氏が再び北京を訪問した。中秋節の翌日、周恩来総理は、「花好月圓人寿」(美しい花、丸い月、長寿の人)という詩句で、80歳の松村謙三氏のご健勝と長寿を祝い、松村氏が中日友好のために更に貢献し、中日関係に「花好月圓」の新時代をもたらしてほしいという願いを表明した。これに対し、松村謙三氏は、中日両国の友好関係の促進に努めることを表明する。松村氏の今回の訪問は大きな成果を収めた。双方は長時間の会談を三回も行い、周恩来総理は松村氏と中日貿易の拡大について四つの内容を確定し、高碕達之助氏が再び訪中して廖承志氏と具体的な案について協議することに同意した。この方案こそが後に有名となる「LT覚書貿易」である。
1962年10月28日、22社の企業のトップを含む高碕達之助氏一行42人が北京に到着した。基本的内容は1カ月前に松村謙三氏が訪中したときに決まっていたため、会談はスムーズに行われ、貿易文書について双方は合意に達した。11月9日、廖承志氏と高碕達之助氏は『中日長期総合貿易に関する覚書』に調印する。双方は長期的、総合的なバーター貿易の発展に同意し、貿易の細かな点についても合意した。また、日常の事務を処理するため、中国側は廖承志事務所を、日本側は高碕達之助事務所を設立した。両国はそれぞれ相手国に連絡事務所を置くことに同意し、このチャンネルを通じて両国記者交換が実現した。
『覚書』は、政府貿易協定に近い性質を持つ。この覚書の調印により、中日貿易は民間友好貿易のほかに、新たに覚書貿易というチャンネルができた。覚書貿易の取引契約は両国代表の廖(LIAO)氏と高碕(TAKASAKI))氏のイニシャルをとって「『LT覚書貿易」と呼ばれた。
1964年8月13日、廖承志東京駐在事務所が開設され、同年9月29日には中国の駐日記者が東京に到着した。これ以後、中日両国の貿易関係は半官半民の発展段階に入り、1972年の国交正常化へと向かうことになった。
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